デカルトによる神の存在証明①無限性と完全性という観念に基づく神の実在性の論証
このシリーズの前回までの記事では、中世ヨーロッパのスコラ哲学におけるアンセルムスやトマス・アクィナスといった神学者たちにおける神の存在証明の議論や、
それよりもさらに前へとさかのぼる古代ギリシアの哲学者であるアリストテレスにおける不動の動者の概念に基づく神の存在証明の議論について詳しく考察してきましたが、
今回からの記事では、近世哲学の父にして、近代観念論の祖であるともされる17世紀のフランスの哲学者であるデカルトにおける三つの神の存在証明の議論について順番に詳しく考察していきたいと思います。
私の意識の内にある通常の物質的存在の観念と神の観念との違い
ルネ・デカルト(René Descartes、1596年~1650年)の哲学は、「我思う、ゆえに、我在り」(cogito ergo sum、コギト・エルゴ・スム)という言葉で知られるように、
思惟する存在としての私、すなわち、意識や自我といった精神的存在としての私の存在のことを最も確実で明証的な真理である哲学の第一原理として位置づけることによって、自らの観念論哲学の新たな道筋を切り拓いていくことになるのですが、
デカルトによる神の存在証明の議論においては、まずはこうした第一原理である思惟する存在としての私の意識の内部に存在する様々な観念についての分析から議論がスタートしていくことになります。
そうすると、まず、
通常の物質的な存在や自分以外の他の人間や生物といった存在の観念は、大きさや形、位置や運動、あるいは、数や量といった私の意識の内にある様々な生得観念を合成していくことによって容易につくり出すことができると分析されていくことになるのですが、
そうすると、ここで、
それでは、神の観念についてもこうした通常の物質的な存在などと同様に、私の意識の内にある生得観念からのみによってその存在の観念をつくり出すことができるのか?という疑問が生じていくことになるのです。
無限性と完全性という観念に基づく神の実在性の論証
そして、ここで、デカルトは、
そうした神の存在を「あらゆるものを創造した全知全能で完全無欠な無限で永遠なる存在」として定義することになるのですが、
こうした神の存在の観念の内に含まれている「無限」や「完全」といった観念は、人間自身がそうした無限性や完全性とは程遠い有限で不完全な存在である以上、
そうした観念の存在は、通常の物質的な事物の観念のように、私の意識の内にある生得観念のみからはつくり出すことができないと考えられることになります。
そうすると、
こうした「無限」や「完全」といった観念は、その観念を認識している主体である私の意識の内にその起源を求めることができない以上、
それは、その観念の対象である無限者にして完全者である神自身の存在の内に起源が求められることになると考えられ、
そうした「無限」や「完全」といった観念の起源となる存在としての神は、私の意識の存在に先立って存在していなければならないという形で、神の実在性の論証が行われていくことになります。
つまり、
もしも、有限で不完全な存在である人間の意識の内に、「無限」や「完全」といった崇高な観念が実際に存在しているとするならば、
そうした「無限」や「完全」といった観念の大本の起源は私の意識のうちに求めることはできず、それは私の存在をはるかに超越した崇高なる存在である神の存在の内に求められることになるという意味において、
そうした「無限」や「完全」といった観念を自らの内に有する無限者にして完全者である神は実際に存在すると結論づけられることになるのです。
・・・
以上のように、
デカルトによる第一の神の存在証明の議論においては、
無限性と完全性という神の存在の内に含まれている人間の存在を超えた崇高な観念の存在に基づいて、神の実在性の論証が行われていると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:デカルトによる神の存在証明②自己原因と私の意識の存在の原因としての神の実在性の論証
このシリーズの前回記事:宇宙論的証明とは何か?②トマス・アクィナスによる三通りの神の存在証明の議論
「神とは何か?」のカテゴリーへ
「デカルト」のカテゴリーへ