「すべての過ぎ去るもの(無常のもの)は映像(影像)にすぎない」という言葉の真意とは?『ファウスト』の和訳と解釈⑱
前回書いたように、『ファウスト』の終幕の場面で歌われる神秘の合唱においては、
「すべての過ぎ去るものは、ただの映像にすぎない」(Alles Vergängliche ist nur ein Gleichnis、アレス・フェアゲングリヒェ・イストゥ・ヌーア・アイン・グライヒニス)という言葉が語られますが、
ここで語られている「過ぎ去るもの」(Vergängliche)と「映像」(Gleichnis)という言葉は、それぞれ具体的にどのようなことを意味していて、
こうした『ファウスト』の神秘の合唱に語られている言葉の真意はどのようなところにあると考えられることになるのでしょうか?
「過ぎ去るもの」「無常のもの」を意味するドイツ語のVergängliche
まず、ドイツ語のVergängliche(フェアゲングリヒェ)とは、
「過ぎ去る、なくなる、死ぬ」といった意味を表す動詞 vergehen(フェアゲーエン)の過去分詞形 vergangen に、状態や性質を表す形容詞をつくる-lichが結合してできた形容詞が中性名詞化した単語であり、
そのまま日本語に訳すと「(永続せずに)過ぎ去るもの」、あるいは、「無常のもの」といった意味を表す言葉として解釈することができます。
つまり、ここでは、
生まれては死に、生じては滅びていく、移ろいやすく儚い存在である人間の命を含めた現実の世界におけるすべての存在のことを指して、Vergängliche(過ぎ去るもの、無常のもの)という単語が用いられていると考えられることになるのです。
「映像」「影像」「似像」を意味するドイツ語のGleichnis
それに対して、
Gleichnis(グライヒニス)というドイツ語の単語の方は、「比喩、たとえ話、似姿、写し」といった多様な意味を持つ中性名詞であり、
「映像」、あるいは、少々なじみの薄い言葉ではありますが、「影像」(神仏や人の姿が写された絵画や彫刻などの像)という訳語を当てた方が、よりドイツ語の原義に近いイメージになるかもしれません。
天上の世界の影像としての現実の世界における人間の生
『ファウスト』の著者であるゲーテも深く精通していた西洋哲学思想の源流には、ソクラテスやプラトン、アリストテレスといった古代ギリシア哲学の思想がありますが、
例えば、そうした古代ギリシア哲学におけるプラトンのイデア論では、
現実の世界におけるあらゆる存在は、すべての存在の根源にある真なる実在であるイデア(idea)を原型として、その似像(にすがた)として形づくられていると考えられることになります。
それと同様に、
天上の世界にある魂のイデア、あるいは、人間自身の心の内にある魂の純粋な生のことを、人間にとっての真実の生であると捉えるならば、
現実の世界における肉体の生は、そうした実体としての魂の生の影のような存在に過ぎないとも捉えられることになります。
つまり、ここでは、
天上の世界における真実の生である魂の純粋な生に対して、
現実の世界における肉体の生は、そうした真なる実在である魂の生から写し取られた「似像」であるに過ぎないという意味で、Gleichnis(映像、影像、似像)という言葉が用いられていると考えられることになるのです。
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以上のように、
『ファウスト』の終幕の場面で歌われる神秘の合唱の冒頭部分における
「すべての過ぎ去るもの(無常のもの)は、ただの映像(影像)にすぎない」
という言葉の真意としては、
現実の世界における人間の生とは、湖の水面(みなも)にうつって流れていく映像のようなものであり、
真実の生は、神と天使たちが住まう天上の世界と、そうした天上の世界に属する存在である人間自身の魂の内にあるということが語られていると考えられることになります。
そして、
こうした天使たちが歌う神秘の合唱を通じて、人間の魂と生命の本質を解き明かしながら、『ファウスト』の物語はその終幕を迎えることになるのです。
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初回記事:ゲーテ『ファウスト』におけるロゴスの翻訳の場面の全文和訳と対訳とドイツ語の発音、ゲーテ『ファウスト』の和訳と解釈①
前回記事:「過ぎ去るものは映像に過ぎず」ファウスト終幕の神秘の合唱の全文和訳と対訳とドイツ語の発音、『ファウスト』の和訳と解釈⑰
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