「憂い」を退けるファウストの意志の力と彼に与えられる最後の試練、『ファウスト』の和訳と解釈⑫
前回書いたように、『ファウスト』第二部第五幕の「真夜中」の章では、
「欠乏」、「罪責」、「困窮」、「憂い」という四つの災厄の名を持つ四人の灰色の女たちが登場した後で、
一人ファウストの心のすき間へと入り込むことに成功した「憂い」が、彼の心の内からあらゆる活力と生きる意志を奪い取ってしまおうとする呪いの歌を歌い出す場面がでてきます。
そして、物語の主人公であるファウストは、自らが持つ意志の力によって、「憂い」がもたらす絶望の力を退け、
自らが望む理想の世界を実現させるために、自らの意志で努力し続ける道を選び取ることになるのですが、
このようにして、ファウストが「憂い」の力を退けることに成功した次の瞬間、「憂い」は、自分が持つ最後の力をふるって彼の両眼に呪いをかけ、ファウストに対する最後の試練が与えられることになるのです。
「憂い」を退けるファウストと最後の試練の場面のドイツ語原文
『ファウスト』第二部第五幕の「真夜中(Mitternacht、ミッターナハトゥ)」の章において、
「憂い」の言葉がもたらす絶望の力をファウストが自らの意志の力によって退け、それに対して、「憂い」が去り際にファウストの両眼に呪いをかける場面は、ドイツ語の原文では以下のように記されています。
・・・
Faust:
Unselige Gespenster so behandelt ihr
Das menschliche Geschlecht zu tausend Malen;
Gleichgültige Tage selbst verwandelt ihr
In garstigen Wirrwarr netzumstrickter Qualen.
Dämonen, weiß ich, wird man schwerlich los,
Das geistig-strenge Band ist nicht zu trennen;
Doch deine Macht, Sorge, schleichend groß,
Ich werde sie nicht anerkennen.
Sorge:
Erfahre sie, wie ich geschwind
Mich mit Verwünschung von dir wende!
Die Menschen sind im ganzen Leben blind,
Nun, Fauste, werde du’s am Ende!
(Sie haucht ihn an. Ab.)
「憂い」が退けられる最後の試練の場面のドイツ語文と日本語文の対訳
そして、次に、上記のドイツ語原文を、発音とアクセントの目安を併記したうえで、ドイツ語原文と日本語との対訳形式で一行ずつ訳していくと以下のようになります。
※ただし、ドイツ語文で強調して読まれるアクセントの目安については、ドイツ語文の下に記した発音を示すカタカナ表記を太字で記すことによって示すこととし、
日本語の訳文を書いた後の※印の部分でところどころ簡単な文法上の注釈を付記している箇所があります。
また、ドイツ語文と日本語文との対訳関係がより分かりやすくなるように、日本語文の訳文において重要な意味を担う箇所を太字で記したうえで、それに対応するドイツ語文の箇所も太字にする形で記しています。
・・・
Faust(ファウスト):
Unselige Gespenster so behandelt ihr
(ウンゼーリヒ・ゲシュペンスター・ゾー・ベハンデルトゥ・イーア)
Das menschliche Geschlecht zu tausend Malen;
(ダス・メンシュリッヒェ・ゲシュレヒトゥ・ツー・タオゼントゥ・マーレン)
呪われた亡霊たちよ。お前たちは人間という種族を
これまで何千回にわたってひたすらそのように扱ってきたことだろう。
Gleichgültige Tage selbst verwandelt ihr
(グライヒギュルティヒ・ターゲ・ゼルプストゥ・フェアヴァンデルトゥ・イーア)
In garstigen Wirrwarr netzumstrickter Qualen.
(イン・ガルスティゲン・ヴィルヴァル・ネッツウムシュトリクター・クヴァーレン)
お前たちは、ありふれた日常の日々でさえ、
それを苦悩の網に絡めとられた不快な混乱の日々へと変えてしまうのだ。
※[4格]+in+[4格] verwandeln:~を~に変える。
※netzumstrickt:Netz(網)+umstrickt(編み包まれた)
※上記の文中のnetzumstrickter Qualenは2格の形で、直前のgarstigen Wirrwarrにかかっているので、直訳すると全体で「網に絡めとられた苦悩の不快な混乱」といった意味となる。
Dämonen, weiß ich, wird man schwerlich los,
(デーモネン・ヴァイス・イヒ・ヴィアトゥ・マン・シュヴェーアリヒ・ロス)
悪しき霊の力から逃れることは難しいということは分かっている。
※loswerden:~から逃れる、~を厄介払いする
Das geistig-strenge Band ist nicht zu trennen;
(ダス・ガイスティヒ・シュトレンゲ・バントゥ・イストゥ・ニヒトゥ・ツー・トレンネン)
人間が心の内にある霊との厳格な結びつきから解き放たれることは決してないのだから。
Doch deine Macht, Sorge, schleichend groß,
(ドホ・ダイネ・マハトゥ・ゾルゲ・シュライヒェントゥ・グロース)
Ich werde sie nicht anerkennen.
(イヒ・ヴェアデ・ズィー・ニヒトゥ・アンエアケネン・)
しかし、「憂い」よ。それでも、心の内へと忍び寄って大きくなるお前の力に支配されることを私が受け入れることは決してないのだ。
Sorge(ゾルゲ、憂い):
Erfahre sie, wie ich geschwind
(エアファーレ・ズィー・ヴィー・イヒ・ゲシュヴィントゥ)
Mich mit Verwünschung von dir wende!
(ミヒ・ミットゥ・フェアヴュンシュング・フォン・ディーア・ヴェンデン)
私があなたのもとから立ち去る前に、すばやく呪いをかけてあげるから、
その時、おまえは私の力を思い知るがいい。
※von+[3格] wenden:~に背を向ける
Die Menschen sind im ganzen Leben blind,
(ディー・メンシェン・ズィントゥ・イム・ガンツェン・レーベン・ブリントゥ)
結局のところ人間とは、その生涯を行く当ても分からず盲目のままに生き続ける者なのだ。
Nun, Fauste, werde du’s am Ende!
(ヌーン・ファウスト・ヴェアデ・ドゥス・アム・エンデ)
だから、ファウストよ。おまえも自らの終わりの時を
盲目となって迎えるがいい。
※du’sはdu esの短縮形。
※am Ende:最後に、結局は
(Sie haucht ihn an. Ab.)
(ズィー・ハオヒトゥ・イーン・アン・アプ)
ファウストにそっと息を吹きかけ、その場を去る。
※anhauchen:~に息を吹きかける
「憂い」を退けるファウストに最後の試練が与えられる場面の全文和訳
そして最後に、上記のドイツ語文と日本語文の対訳の中から、和訳の部分だけを抜き出して、改めて該当箇所の全文和訳を記す形でまとめ直すと以下のようになります。
・・・
ファウスト(「憂い」に対して):
呪われた亡霊たちよ。お前たちは人間という種族を
これまで何千回にわたってひたすらそのように扱ってきたことだろう。
お前たちは、ありふれた日常の日々でさえ、
それを苦悩の網に絡めとられた不快な混乱の日々へと変えてしまうのだ。
悪しき霊の力から逃れることは難しいということは分かっている。
人間が自らの心の内にある霊との厳格な結びつきから解き放たれることは決してないのだから。
しかし、「憂い」よ。それでも、心の内へと忍び寄って大きくなるお前の力に支配されることを私が受け入れることは決してないのだ。
憂い:
私があなたのもとから立ち去る前に、すばやく呪いをかけてあげるから、
その時、おまえは私の力を思い知るがいい。
結局のところ人間とは、その生涯を行く当ても分からずに、
盲目のままに生き続ける者なのだ。
だから、ファウストよ。おまえも自らの終わりの時を
盲目となって迎えるがいい。
(「憂い」はファウストにそっと息を吹きかけ、その場を去る。)
・・・
以上のように、
ファウストは、人間の心がその本性において「憂い」がもたらすような悪しき霊の力や暗い衝動と離れ難い形で密接に結びついて、人間がそうした悪しき力から完全に逃れきる術を持たないことを深く自覚しながら、
「憂い」がもたらす悪しき力や絶望に触れながらも、その力によって自らの心を支配させることを受け入れずに、自分が望む理想の世界を実現するために努力し続けていくいく道を自らの意志の力によって選び取るという決断を下すことになります。
そして、
こうしたファウストの意志の力によって退けられることになった「憂い」は、ファウストを試し、彼に最後の試練を与えようとするかのように、
自分が持つ最後の力によって、美しいものを追い求め、それを見ることに喜びを見いだしてきた彼の両眼に呪いの息を吹きかけ、彼を盲目の姿へと変えてしまうことになるのです。
・・・
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