「分かる」と「理解する」と「共感する」の違いとは?「頭で分かること」と「心で分かること」の違い
「分かる」と「理解する」さらには「共感する」といった表現は、
例えば、
「あなたの言うことはまったく理解できない」
「君の言い分も理解はできるが、それに共感することはできない」
「言葉の意味は理解できても、実際には分かっていない」
といように、様々な文脈において、互いに似通った表現として用いられることになります。
それでは、上記の「分かる」と「理解する」そして「共感する」という三つの言葉には、それぞれ具体的にどのような意味合いの違いがあると考えられることになるのでしょうか?
「頭で理解すること」と「心で共感すること」の違い
まず、「理解」と「共感」という二つの言葉の違いについては、
「理解」とは、文字通り、「理で解する」こと、すなわち、物事の道理や頭の中にある論理に従って物事の正しい意味や内容を知っている状態のことを指す概念ということになります。
それに対して、
「共感」とは、「共に感じる」ことを意味する言葉であり、それはすなわち、他者の意見や感情などに対して心からその通りだと感じていることを意味する概念ということになります。
例えば、
無差別大量殺人犯が何の抵抗もなく人々を次々に殺害してしまうといった痛ましい事件に接する時、
殺人犯がそうした行為へと至るまでの経緯や背景についての情報を十分に知り、さらには心理学的知識を得ることなどによって、そうした殺人犯の心理状態自体を知識として理解することはある程度可能であると考えられることになります。
しかし、
通常の人間の場合、そうした無差別殺人犯が人を殺すときに感じている実際の気持ちや、人間を殺したいと感じる欲求自体に心から共感することはできないと考えられますし、
むしろ、そうした無差別殺人犯における殺人衝動のようなものは、人間として、その心理状態について頭で理解することはあっても、心で共感するべきではない種類の物事であると考えられることになります。
このように、
「理解」が客観的な論理の筋道に従って頭で判断する論理的判断であるのに対して、「共感」が自分自身の心の内で感じるという感性的判断であるという点に、両者の概念の違いがあると考えられることになるのです。
狭義と広義における「分かる」の意味の違いとは?
そして、
もう一つの概念である「分かる」という言葉の意味についてですが、
『大辞泉』の定義においても、「分かる」とは、「意味や区別などがはっきりする。理解する。了解する」ことであると説明されているように、
それは、基本的には、「理解する」とほぼ同義の言葉であると解釈することができると考えられることになります。
しかし、こうした狭義における「分かる」の定義の一方で、
冒頭の言葉の使い方の例でも、「言葉の意味は理解できても、実際には分かっていない」という文例を紹介したように、
実際の文脈では、「理解する」と「分かる」は必ずしも同義語としては用いられていないケースもあり、
こうしたケースでは、「分かる」という言葉は、「理解する」という言葉よりも、多様な意味の広がりを持った言葉として用いられていると考えられることになります。
つまり、そういう意味では、
「分かる」という言葉を「理解」と「共感」という両者の概念の中間に位置する言葉として捉えることも可能であり、
広義の意味における「分かる」という言葉は、「理解」と「共感」という両者の概念を共に含むような多様な認識のあり方のことを示す概念であると考えられることになるのです。
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以上のように、
「分かる」と「理解する」そして「共感する」という三つの言葉の意味の違いについては、まず、
「理解する」と「共感する」という二つの言葉は、
「理解」が客観的な論理の筋道に従って頭で判断する論理的判断であるのに対して、
「共感」が自分自身の心の内で感じるという感性的判断であるという点に、両者の言葉の具体的な意味合いの違いがあると考えられることになります。
そして、
狭義の意味における「分かる」が「理解する」と同義語の言葉として捉えられるのに対して、
広義の意味における「分かる」は、理解と共感という二つの概念の中間に位置する言葉であり、後者の解釈にしたがった場合、
「頭で分かること」が「理解」であり、それに対して、
「心で分かること」が「共感」であるという点に、それぞれの言葉の具体的な意味合いの違いがあると考えられることになるのでです。
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