「海の民」を構成する主要な十の民族の地理的関係、海の民の地中海世界への侵攻②

前回述べたように、

海の民」による古代地中海世界への侵攻は、

様々な民族集合と離散を繰り返していく中で、
侵攻の主体も刻々と移り変わっていく形で
展開していったと考えられるのですが、

今回は、

こうした「海の民」の集団を構成する
主要な民族と部族の顔ぶれはどのようなものであったのか?

ということについて考えてみたいと思います。

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主要な十の民族と部族の位置関係

「海の民」を構成する民族の推定については諸説あり、
古代の文献に記されている民族表記と
その後の世界の民族との関係などについて不明な点も多く、
その正確な民族構成について具体的に知ることは難しいのですが、

ある程度具体的に推定できるものについて整理していくと、

海の民」を構成する主要な民族と部族は、おおよそ以下のような
十の民族と部族にまとめることができると考えられます。

「海の民」を構成する主要な十の民族と部族(アカイア人(デニエン人)、トロイア人、リュキア人、古代アナトリア人、チェケル人、ペリシテ人、ウェシェシュ人、およびシェケレシュ人、シェルデン人、エトルリア人)の地理的関係

これから、

上図に記した十の民族と部族について、

東地中海全体を
エーゲ海周辺アナトリア地方パレスチナ地方、そしてイタリアという
四つの地域に分類したうえで、

それぞれの部族の特徴などについて
整理して考えていきたいと思います。

アカイア人の流民集団とトロイア人

海の民」による地中海世界への侵攻活動は
紀元前1200年前後に始まり、

初期の活動は、東地中海エーゲ海周辺を中心に
行われていたと考えられるのですが、

当時、この地域を支配していた古代ギリシア文明が
ミケーネ文明であり、

このミケーネ文明の担い手が古代ギリシア人の一派である
アカイア人Achaeans)でした。

そして、

ミケーネ文明内の諸都市の
抗争や内紛によってなのか、あるいは、

侵略者によって都市が破壊されたことによる
外部的要因によってなのかは定かではありませんが、

このアカイア人が自らの都市を離れて
流民集団を形成していくことによって、

海の民」の集団の中核を担う存在と化していき、
ミケーネ文明内の別のギリシア人諸都市に対して
襲撃と略奪を繰り返していくようになっていったと考えられています。

また、

古代エジプトの資料において、
海の民」を構成する部族として

デニエン人Denyen)やエクヴェシュ人(Ekwesh)などの
名が記されていますが、

こうした部族も
アカイア人を中心とするギリシア語を話す人々のことを指している
と考える説が有力となっています。

つまり、

ミケーネ文明、さらにはその大枠のくくりとしての
エーゲ文明の自壊に伴うアカイア人の流民化

海の民」という民族集団が形成される
一つの大きな要因となっていたと考えられるということです。

また、

エジプトの文献ではテレシュ人Teresh)と記されている
テュレニア人Tyrrhenians)と呼ばれる人々については、

それが、

古代都市トロイア滅亡後に流民となった
トロイア人Trojans)を指すという説と、

古代イタリア世界においてラテン人やローマ人に先駆けて
先進文明を築き上げた古代民族である
エトルリア人Etrusci)を指すという説の

二つの説に解釈が分かれるのですが、

以前、海の民の正体とエトルリア人との関係
で書いたように、

最も有力な仮説に基づくと、

エトルリア人の起源自体が
古代都市トロイアと隣接する東地中海沿岸の地域である
リュディア地方に求めることができるので、

テレシュ人テュレニア人と呼ばれる「海の民」を構成した人々が
トロイア人だったのか?それともエトルリア人だったのか?
という問題については、

必ずしも、どちらか一方の解釈を取らなければならない
という問題ではないと考えることもできます。

トロイア人が、自らの都市の滅亡後に、
「海の民」の一員としてその侵攻活動へと加わっていき、

海の民」としての東地中海の放浪の旅の末に、
古代イタリアの北西部、トスカナ地方周辺へと定着し、

その後、エトルリア人と呼ばれるようになったと考えれば、
両者の説は両立するとも考えられるということです。

アナトリア地方の諸部族

そして、

地中海沿岸からさらに東へと進み、
内陸部へと侵攻していった「海の民」は、

当時のアナトリア地方(小アジア)に居住していた
古代アナトリア人Ancient Anatolians)や、

現在のトルコ南西部の地中海沿岸に居住していた
リュキア人Lycia、エジプト側の文献ではルッカ人Lukka))
などの勢力を巻き込みながら、

ヒッタイト帝国の支配領域へと雪崩を打って侵攻していき、
古代最強の軍事大国を滅亡へと追い込んでいくことになります。

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パレスチナ地方の諸部族

一方、

古代エジプトや中東方面での
「海の民」の活動の中核を担った民族としては、

例えば、

ペリシテ人Philistines)が挙げられます。

ペリシテ人は、アラビア半島北西部のカナン地方に居住していた
元々は、ギリシア系の人々を起源とする民族で、

後に古代イスラエルの王となるダビデと戦い、
小柄なダビデが投げ放った石によって額を打ち抜かれて倒されることになる
旧約聖書の「サムエル記」において描かれている
巨人兵士ゴリアテもペリシテ人の兵士でした。

そして、

現代のパレスチナ地方Palestina)も
その言葉は元々は「ペリシテ人の土地」という意味であり、
ペリシテ人がその語源となっています。

また、

エジプト側の文献では、パレスチナ北部には
チェケル人Tjeker)と呼ばれる部族も住んでいたとされ、
彼らも、「海の民」の侵攻活動に加わっていたと記されています。

同じ古代エジプトの文献に記されている
「海の民」の構成部族の中には、

ウェシェシュ人Weshesh)という部族の名も記されていて、
この部族については、居住地域などの定かな情報はないのですが、

その文献においては、ウェシェシュ人の存在は、前述した
ペリシテ人チェケル人デニエン人(アカイア人)などの諸部族と
並んで記されているので、

ウェシェシュ人も、こうした地域、すなわち、
パレスチナ地方からエーゲ海周辺の地域に居住する部族であったと
推定することは可能と考えられます。

イタリアの古代民族

そして、

さらに西方の地中海世界からは、

シチリア島に居住していた
シェケレシュ人Shekelesh)や

サルディーニャ島に住んでいたと考えられる
シェルデン人Sherden)、そして、

イタリア半島北西部のトスカナ地方を本拠地とする
エトルリア人Etrusci)なども

「海の民」の侵攻活動に加わっていったと考えられます。

・・・

以上のように、

エーゲ海アナトリアパレスチナの諸民族および諸部族に、
より遠方から「海の民」の活動に参加したと考えられる
イタリアの古代民族も加えることによって、

海の民」を構成していたと考えられる
主要な十の民族と部族のメンバーがすべて揃うことになります。

もっとも、

「海の民」という集団自体は、
まとまりのある一つの国家や組織のようなものでは決してなく、

それはむしろ、無秩序でそれ自体としては無目的
流民の寄せ集めによって形成された集団に過ぎなかったので、

上記の十の民族と部族は、そのすべてが同時期に
「海の民」として一体的な活動をしていたわけではありません。

ある部族が別の部族の都市を破壊しては、
町を破壊された人々が流民となって新たに「海の民」の活動に加わり、

ある地点で特定の部族による襲撃活動が阻まれ、その集団が瓦解すると、
その穴を埋めるように新たな部族が現れて破壊活動を引き継ぐというように、

「海の民」による地中海世界への侵攻活動は、
集団を構成する民族や部族の集合と離散の中で、

押しては引き、引いては押し返す大波のように
繰り返し展開されていったと考えられます。

そして、

上記の十の民族と部族に象徴されるように、

「海の民」による古代文明への侵攻活動は、
地中海世界の幅広い地域から集まって来た
多様な民族と部族たちによって繰り広げられることとなり、

後半へと進んでいけばいくほど揺り返しが大きく、苛烈さを増していく
数十年間にわたる侵攻の流れの全体の中で、

ミケーネ文明やヒッタイト帝国といった
地中海世界の古代文明は、
加速度的に崩壊へと突き進んで行くことになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:「海の民」の地中海侵攻ルートと三つの古代文明の滅亡と衰退、海の民の地中海世界への侵攻①

関連シリーズの次回記事:
古代ギリシアの暗黒時代とは何か?①ボーダレス化による鉄器文化の流入と幾何学文様

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