コリント戦争におけるペルシア帝国の暗躍と大王の和約:イオニアのギリシア人諸都市をペルシアへと売り渡す屈辱的な条約内容
前回書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界における覇権を一手に握ることになったスパルタは、さらな野望を抱いて東方のペルシア遠征へと乗り出していくことになるのですが、
こうしたスパルタの王アゲシラオス2世によるペルシア遠征は、知略に長けた宰相であったティトラウステスを中心とするペルシア側からの画策もあってギリシア本国においてコリント戦争がはじまることによって撤退を余儀なくされることになります。
スパルタの覇権への同盟諸都市の反抗とコリント戦争という呼び名の由来
紀元前404年のアテナイの無条件降伏によってペロポネソス戦争が終結したのち、戦勝国となったスパルタは、敗戦国となったアテナイを含むギリシアの各都市にハルモステスと呼ばれる調停者を派遣することなどによってギリシア世界全体への間接的な支配を強めていくことになるのですが、
こうしたギリシア世界全体への自らの支配と影響力を強めていくスパルタの覇権主義に対しては、アテナイやアルゴスといったもともとスパルタと敵対関係にあった都市国家だけではなく、テーバイやコリントといったスパルタと同盟関係にあった都市国家においても反感が高まっていくことになります。
そしてその後、紀元前395年にはじまったコリント戦争においては、スパルタとテーバイとの間で起きた国境争いをめぐる小さな紛争から端を発して、
アテナイとアルゴスそしてテーバイやコリントを中心とするギリシアの諸都市が同盟を結んでスパルタの覇権に対して反抗する戦いを挑んでいくことになります。
そして、こうしたアテナイやテーバイを中心とする同盟諸都市とスパルタとの戦いにおいては、ペロポネソス戦争ではスパルタの同盟者として共に戦っていたペロポネソス同盟の主軸国の一つであったコリントもスパルタに対して反旗を翻していくことになり、
その後のギリシア本土における陸上戦においては、コリントを中心とする地域において大規模な会戦が行われることになったため、
こうしたスパルタとその覇権に対抗する同盟諸都市との一連の戦いのことを指して、この都市国家の名をとってコリント戦争、または、その古代ギリシア語での発音にあたるコリントス戦争と呼ばれることになったと考えられることになるのです。
コリント戦争におけるアテナイ海軍の復活とペルシア帝国の暗躍
そして、こうしたコリント戦争と呼ばれる戦いにおいては、スパルタの覇権の拡大によってその勢力が東方のペルシアの支配領域にまでおよぶことを恐れたアケメネス朝ペルシアがギリシア世界の分裂を画策することによって、
ペロポネソス戦争において敵対していたアテナイを中心とする同盟諸都市に対して大規模な経済的および軍事的支援を行っていくことになります。
そしてその後、陸上の戦いにおいては、ギリシア世界のなかでも最強の重装歩兵の軍団を率いるスパルタが優勢に戦いを進めていくことになるのですが、
ペルシアから提供された莫大な資金によってペロポネソス戦争の際にスパルタに破壊されていた城壁を再建して海軍の再建まで果たすことになったアテナイは、一時はペルシア艦隊まで借りることによってスパルタ海軍を破ることに成功することになります。
そして、海上の戦いにおいて、こうしたペルシアの支援を受けたアテナイを中心とする同盟諸都市の攻勢を受けることによってエーゲ海の制海権を失うことになったスパルタは徐々に苦戦を強いられていくことになるのです。
大王の和約によるコリント戦争の終結と屈辱的な条約内容
そしてその一方で、かつての宿敵であったペルシアからの援助を受けて再びエーゲ海の覇者として返り咲くことになったアテナイの海軍が東方のイオニア地方の沿岸にまで活動を広げていくことになると、
ペルシア帝国は、今度は、スパルタのギリシア世界における覇権の拡大よりも、そうしたエーゲ海におけるアテナイの影響力の拡大の方をより強く警戒していくことになります。
そして、こうしたペルシア側の情勢の変化をいち早く察知したスパルタの将軍であったアンタルキダスは、自らペルシアへの使節として王都スサへと赴いてペルシアの大王であったアルタクセルクセス2世との交渉へと乗り出していくことになります。
そして、こうしたスパルタからの要請を受けてペルシアの大王であるアルタクセルクセス2世の呼びかけによってギリシア諸都市を集めた和平会議が開かれることになると、
この会議において、アテナイやテーバイといったギリシアの諸都市は、スパルタの使節であったアンタルキダスの画策とそれを採用したペルシアの大王の意向によって締結された条約を受け入れることによってコリント戦争は終結を迎えることになったので、
この条約はその締結の発案者となったスパルタの将軍の名をとってアンタルキダスの和約と呼ばれると同時に、それがペルシアの大王の意向を大きく取り入れられた条約内容であったことから大王の和約とも呼ばれていくことになります。
そして、こうした紀元前386年に結ばれることになった大王の和約あるいはアンタルキダスの和約と呼ばれる条約においては、アケメネス朝ペルシアがスパルタやアテナイといったギリシアにおける都市国家の独立と自治を承認して戦争は終結を導いた代わりに、
アナトリア半島とイオニア地方に位置するギリシア人諸都市を含むすべての都市国家はペルシア帝国の支配のもとに服することが認められることになります。
つまり、そういった意味では、こうしたスパルタとペルシア帝国の主導によって結ばれた大王の和約の締結によるコリント戦争の終結においては、
ギリシア世界にもたらされることになった一時の平和の代償として、事実上、イオニア地方におけるギリシア人諸都市をペルシアへと売り渡すことになるというギリシア側にとっては屈辱的な条約が結ばれることになったと考えられることになるのです。