聖木曜日と洗足木曜日の由来とは?最後の晩餐でのキリストの愛の証としての洗足式とキリストの体と血としてのパンとブドウ酒
キリスト教において、十字架の死からのイエス・キリストの復活を祝う復活祭までの最後の一週間にあたる聖週間や受難週と呼ばれる一週間は、
「枝の主日」あるいは「棕櫚の日」と呼ばれるキリストのエルサレム入城を記念する日曜日にはじまることになるのですが、
こうしたキリスト教における聖なる一週間のなかで、そうした枝の主日や棕櫚の日と呼ばれる日曜日に続いて迎えることになる聖週間の重要な日としては、
「聖木曜日」あるいは「洗足木曜日」と呼ばれる木曜日が続いていくことになると考えられることになります。
それでは、
こうした聖週間や受難週と呼ばれるキリスト教における聖なる一週間のなかでも枝の主日に続く重要な日として位置づけられている聖木曜日は、新約聖書における記述においては具体的にどのような日として位置づけられていて、
こうした聖木曜日と呼ばれる日が洗足木曜日といった呼び名でも呼ばれている具体的な由来は、どのような聖書の記述の内に求められることになると考えられることになるのでしょうか?
マタイによる福音書におけるキリストの最後の晩餐についての記述とキリストの体と血としてのパンとブドウ酒
そうすると、まず、
こうした聖週間や受難週と呼ばれる一週間のうち復活祭の3日前にあたる日である聖木曜日は、その翌日の聖金曜日に十字架の死を迎えることになるイエス・キリストが十二人の弟子たちと共に最後の晩餐を行った聖なる日として位置づけられることになるのですが、
新約聖書のなかで、そうしたイエス・キリストの最後の晩餐の場面についての詳細な記述がなされている箇所としては、
例えば、マタイによる福音書における以下のような記述が挙げられることになります。
・・・
除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。…
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。
「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。
「皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
(新約聖書「マタイによる福音書」26章17節~28節)
・・・
そして、こうしたマタイによる福音書において記されている最後の晩餐においてイエス・キリストが語ったとされている言葉に基づいて、
カトリック教会における聖餐式(ミサ)や、正教会における聖体礼儀においては、聖別されたパンとブドウ酒を信徒たちに分け与えて共に食することによってキリストへの感謝の祈りを捧げる儀式が行われていくことになるのです。
ヨハネによる福音書におけるキリストの深い愛の証としての洗足式
また、こうした最後の晩餐におけるイエスと弟子たちの姿についての記述は、その後のヨハネによる福音書においては以下のような形でも語られていくことになります。
・・・
さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
(新約聖書「ヨハネによる福音書」13章1節~28節)
・・・
つまり、こうしたヨハネによる福音書において記されている最後の晩餐の場面においては、イエスは自らの弟子たちを、そして、そうした弟子たちの姿を通じてこの世に生きるすべての人々を深く愛されていて、
深く愛しているがゆえに、そうしたイエス・キリストの深い愛の証として、イエス自らの手で弟子たちの足を洗うという行いが示されていると考えられることになります。
そして、
こうしたヨハネによる福音書において記されている最後の晩餐における一連の記述に基づいて、
こうした聖木曜日と呼ばれる復活祭の3日前にあたる日には、カトリック教会や正教会においては、司祭や神父の手によって信徒たちの足を洗うという洗足式(せんぞくしき)と呼ばれる儀式が行われていくことになるのですが、
聖木曜日の別名である洗足木曜日という呼び名は、こうしたヨハネによる福音書において記されている最後の晩餐において弟子たちの足を洗うイエス・キリストの姿に由来して、こうした呼び名がつけられることになっていったと考えられることになります。
また、
上述したヨハネの福音書の箇所に記されているイエスの最後の言葉として語られている「皆が清いわけではない」という言葉においては、
イエスのことを銀貨三十枚で売り渡すことによって、自分の魂を悪しき者たちの手へと売り渡してしまった裏切り者のユダのことが示されているように、
こうした聖木曜日あるいは洗足木曜日と呼ばれる聖週間の日は、自分の弟子たちの足を洗うという行いを通じて、すべての人々に対するイエス・キリストの深い愛の証が示される日であると同時に、
そうしたキリストの手によって自分の足を洗われるということを通じて、果たして自分はイエス・キリストによって清められるに値する人間なのか?という問いが自らの心につきつけられていくという自分自身の罪に対して深く向き合う日としても位置づけられていると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:聖金曜日と聖土曜日の由来とは?ルカによる福音書におけるイエスの十字架の死から復活までの記述とユダヤ教の安息日との関係
前回記事:枝の主日と棕櫚の日の由来とは?マタイとヨハネの福音書のキリストが通る道に敷き詰められたシュロの木の枝についての記述
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