悟性と知性の違いとは?ギリシア語とラテン語における語源とカントの認識論哲学と古代ギリシア哲学における位置づけの違い
前回の記事で書いたように、カントの認識論哲学の議論においては、人間の心における認識のあり方は、感性と悟性と理性と呼ばれる三つの心の働きのあり方に基づいて形成されていくことになると説明されていくことになるのですが、
このうち、感性と理性の中間に位置づけられる心の働きのあり方として挙げられている「悟性」と呼ばれる概念は、より一般的な言葉でいうならば、「知性」と呼ばれる概念と最も近い意味を持つ言葉であると考えられることになるのですが、
それでは、こうした悟性と知性と呼ばれる二つの概念は、互いにどのような関係にある心の働きのあり方として捉えることができると考えられることになるのでしょうか?
悟性と知性という言葉のギリシア語とラテン語の語源
「悟性」と呼ばれる言葉は、原語であるドイツ語においては、Verstand(フェアシュタント)と表記されることになるのですが、
こうしたドイツ語におけるVerstandという言葉は、英語におけるunderstanding(アンダースタンディング、理解)に該当する言葉であり、
もともとは、物事を筋道立てて論理的に理解していくといった一般的な思考能力や知性の働きのあり方を意味する言葉であったと考えられることになります。
そして、さらに、
こうしたドイツ語におけるVerstandという言葉をその大本の源流にまでさかのぼって考えていくと、その大本の語源となる言葉としては、
ギリシア語におけるnous(ヌース)やラテン語におけるintellectus(インテレクトゥス)といった言葉が挙げられることになるのですが、
こうしたラテン語におけるintellectusという言葉は、英語におけるintellect(インテレクト、知性)という単語の語源ともなっていることからも分かる通り、
こうした「悟性」という言葉は、その大本の語源となる意味においては、「知性」と呼ばれる概念とまったく同じ意味を表す言葉として位置づけられていると考えられることになるのです。
古代ギリシア哲学における「知性」とカントの認識論哲学における「悟性」の位置づけのあり方の違い
しかし、その一方で、
カントの認識論哲学における人間の心における認識の働きのあり方のことを表す一種の専門用語としての「悟性」と呼ばれる概念は、
古代ギリシア哲学や、ラテン語を学術言語として使用していた中世のスコラ哲学における一般的な定義としての「知性」とは、明らかに異なった特徴を持った心の働きのあり方としても位置づけられていると考えられることになります。
例えば、
古代ギリシア哲学やスコラ哲学における「知性」の存在のあり方は、アリストテレス哲学における能動知性の概念などの内に見いだされるように、
世界の存在の究極の根拠としての神の存在へも通じるような最上位の精神的原理のあり方として位置づけられていくことになるのですが、
それに対して、
カントの認識論哲学においては、
感性の直観に基づいて与えられた認識の素材が、悟性における総合を経たうえで、そこに理性における統一がもたらされることによって客観的認識へと至ることになるというように、
「悟性」と呼ばれる心の働きは、感性と理性と呼ばれる心の働きの中間に位置する両者の橋渡し役を担う精神的原理として位置付け直されていくことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
こうした「悟性」と「知性」と呼ばれる二つの概念は、
どちらもギリシア語におけるnousやラテン語におけるintellectusといった言葉を起源とする言葉であるというように、
大本の語源となる意味においては、まったく同じ意味を表す言葉として捉えられることになるのですが、
その一方で、
古代ギリシア哲学やスコラ哲学においては、「知性」と呼ばれる存在は、神の存在へも直接通じていくような最上位の精神的原理として位置づけられているのに対して、
カントの認識論哲学における「悟性」と呼ばれる概念は、感性と理性と呼ばれる心の働きの中間に位置して両者の橋渡し役を担うという意味において、理性の下位の精神的原理として位置づけられているといった点に、
こうした二つの心の働きのあり方を表す概念における具体的な意味の違いを見いだしていくことができると考えられることになるのです。
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次回記事:理性とは何か?①ギリシア語とラテン語におけるロゴスとラティオの具体的な意味
前回記事:感性と悟性と理性の違いとは?カントの認識論哲学における「直観」と「総合」と「統一」という三段階の認識作用
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