唯心論としてのアリストテレス哲学の解釈、不死なる魂と不動の動者としての神の存在を肯定する精神的な実体の存在の探求
前回の記事では、アリストテレス哲学における栄養摂取といった物質的な生命活動のあり方を含む魂の定義のあり方や、質料としての身体と形相としての魂の存在の一体性が提示されている存在論の議論に基づいて、
身体という物質的な存在を離れて実在する精神的な実体としての不死なる魂の存在を否定する唯物論的世界観を導いていく議論について詳しく考察してきましたが、
アリストテレスの哲学における魂の存在の捉え方からは、こうした唯物論的な解釈と同時に、その反対に、そうした精神的な実体としての不死なる魂の存在を肯定するような唯心論的世界観へと至る議論を提示していくこともできると考えられることになります。
「形相としての実体」および「第一の現実態」としての魂の存在
アリストテレスの『魂について』(デ・アニマ、De Anima)における魂の定義のあり方には、
前回取り上げた栄養摂取や知覚や思考といった具体的な魂の働きを列挙していく形で提示される定義のあり方のほかにもいくつか別のより抽象的な定義のあり方が提示されている箇所もあり、
そこでは、質料としての身体に対する形相としての魂の存在は、通常の事物における質料と形相の関係の内にあるだけではなく、「形相としての実体」として位置づけられる存在でもあり、そうした魂そのものの存在は「第一の現実態」でもあると定義されていくことになります。
例えば、
生命を持たない単なる物質的存在としての通常の事物における質料と形相の関係においては、
ダビデ像という一つの彫像の質料としての大理石の存在は、ダビデ像という形相を与えられる前の段階においてもその形相を取り除かれた後の段階においても変わらず大理石のままであると考えられることになりますが、
それに対して、
生命を持つ存在としての人間における質料としての身体と形相としての魂との関係においては、
魂の存在が与えられる前の段階においては世界のうちにはどこにも身体と呼びうるような質料の存在を見いだすことができず、
魂の存在が取り除かれた後の段階、すなわち、肉体としての死を迎えることによって魂の存在を失った死体はもはや身体ではなくただの物体であると考えられることになります。
このように、
魂と身体との関係は、それが質料と形相の関係にあるといっても、それはダビデ像のような単なる物質的存在としての通常の事物における質料と形相の関係と同一の関係にあるということを意味しているわけではなく、
そこには、質料としての身体と形相としての魂の間にだけ存在する特殊で本源的な関係を見いだしていくことができると考えられ、
そういった意味では、
形相としての魂の存在は、それ自体としては単なる物質の寄せ集めに過ぎないような物体としての質料自体の存在を、形相としての魂との本源的な結びつきを持った身体としての質料のあり方へと直接的に変化させていくという現実的な作用を及ぼす力を持った存在、
すなわち、
素材や材料としての物質的な原理である質料の存在を必要とせずに、それ自体としてすでに現実態の状態にある現実的で実在的な存在として捉えることができると考えられることになるのです。
精神的な実体としての人間の魂と不動の動者としての神との関係
そして、
こうした物質的な原理としての質料の存在を前提とせずに形相のみにおいて現実態として存在する魂や知性としての精神的実体の存在のあり方は、
こうした人間における魂の存在についての議論だけではなく、『自然学』における不動の動者としての神の存在の議論においても同様に見いだしていくことができると考えられることになります。
以前に、「アリストテレスの哲学における純粋形相および純粋現実態としての不動の動者」の記事でも書いたように、
アリストテレスの哲学における宇宙の存在自体の究極の根拠である「不動の動者」の存在は、純粋形相であると同時に純粋現実態としても位置づけられる存在として捉えられたうえで、
最終的に、その存在の本質は能動知性と呼ばれるような神的な知性のうちに求められていくことになるのですが、
そういった意味では、
アリストテレス哲学における不動の動者としての神の存在は、
能動知性と呼ばれる神的な知性のあり方を純粋形相とする非質料的な存在すなわち非物質的な存在という意味での精神的な実体として捉えられると同時に、
そうした精神的な実体としての知性を持った存在としての神は、純粋現実態すなわちいかなる意味においても単に可能的であるだけの非現実的な存在のうちにとどまることのないあらゆる意味において現実的で実在的な存在として捉えられていると考えられることになります。
そして、それと同時に、
そうした不動の動者としての神の存在と同様に知性を持った存在である人間の魂の存在についても、
それは物質的な原理としての質料の存在を必要とせずに、自らの形相のみにおいて、すなわち、それ自身としての本質のみにおいてすでに現実的で実在的な存在として存在していると捉えることができると考えられることになるのです。
不死なる魂と不動の動者としての神の存在を肯定する唯心論としてのアリストテレス哲学の解釈
以上のように、
こうした『魂について』における形相のみにおいて現実態として存在する実体としての魂の定義や、『自然学』における純粋形相および純粋現実態としての不動の動者の存在についての議論に基づくと、
少なくとも、
栄養摂取や知覚や思考といった様々な生命原理のあり方を含む魂の働きのなかでも、ほとんど身体的な要素が関わることがないと考えられる
ある種の学問的探究や哲学的探究あるいは宗教的な信仰としての思考活動の源にあるような純粋な知性の働きの主体となる知性としての魂の存在においては、
それは物質的な原理としての質料の存在を必要とせずに、自らの形相のみにおいてすでに現実的で実在的な存在として存在する非質料的な存在として捉えられることになり、
そうした人間という存在における知性としての魂の存在は、それが非質料的な存在、すなわち、非物質的存在であるという意味において物質的存在の生成変化にともなって消滅してしまうことのない不滅にして永遠なる精神的な実体として捉えることができると考えられることになります。
そして、
そうした精神的な実体としての不死なる魂の働きによって、単なる物体としての質料が身体としての質料へと直接的に変化していく現実的な作用がもたらされるのと同様に、
宇宙全体の存在についても、それは究極的には、能動知性と呼ばれる神的な知性を本質とする精神的な実体としての不動の動者としての神における知性の作用によって創造されていると考えられるように、
こうしたアリストテレスの哲学における生命と魂そして神についての一連の議論からは、
精神的な実体あるいは知性的な存在者としての不動の動者としての神と不死なる魂の存在を肯定したうえで、
そうした精神的な実体の存在を究極の根拠とすることによって宇宙全体の存在が成り立っていると考える唯心論的な世界観を見いだしていくことができると考えられることになるのです。
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