人間は不完全であるがゆえに神ではないのか?それとも不死ではないがゆえに神ではないのか?

前回書いたように、人間は神ではないという命題は、

大前提:すべての不死である。(全称肯定命題(A))
小前提:すべての人間不死ではない。(全称否定命題(E))
 結論:ゆえに、すべての人間ではない。(全称否定命題(E))

という妥当な三段論法の推論によって形而上学的に論証することができると考えられることになるのですが、

一般的には、人間が神ではないということは、上記のような神の不死性をめぐる問題よりも、

人間は神のように完全でもなければ、神のように卓越した知性と能力も持っていないので、そのことを深く自覚し、驕り高ぶるべきではない、というように、

能力や知性の完全性という観点から説明されることが多いと考えられることになります。

そこで、今回の記事では、「人間は神ではない」という命題の論証、すなわち、人間と神とを分け隔てる性質を解き明かす論証のあり方としては、

不死性完全性という二つの観点のうちのどちらの論点に着目した推論の方がより適切な論証となっていると言えるのか?という問題について改めて考えてみたいと思います。

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ギリシア神話やローマ神話における完全な神と不完全な神の違い

まず、人間が有限な存在である以上、その知性や能力にも限りがあり、全知全能と呼びうるような完全な知性と能力をもつことがあり得ない不完全な存在であるというのはいいとして、

それに対して、果たして、神という存在は、そうした知性や能力あるいは正しさといった観点において、常に完全性を備えた存在であると言えることになるのでしょうか?

すると、例えば、

キリスト教の旧約聖書における唯一神の名であるヤハウェ(エホバ)や、ギリシア神話におけるオリンポス十二神の主神ゼウスローマ神話の主神ユピテルなどは、

確かに、全知全能と呼びうるような無限で完全なる知性と能力を備えた神として捉えることもできる考えられることになりますが、

それに対して、

同じギリシア神話のオリンポス十二神のうちの一柱であるヘーパイストスと呼ばれる鍛冶屋の神様は、両足が折れ曲がった立ち歩くのが不自由な姿をした神として描かれていますし、

ローマ神話に出てくるラウェルナと呼ばれる女神は、詐欺と不正な利益を司る盗人や詐欺師たちの守護者として位置づけられているように、

古今東西の様々な神々の中には、全知全能と呼びうるような完全性を有するどころか、ある点においては、通常の人間よりも劣った能力や性質をもった神々もいると考えられることになります。

つまり、そういう意味においては、

完全性という性質は、古今東西のあらゆる宗教におけるすべての神に共通する性質ではなく、それは、キリスト教における唯一神や、ギリシア神話やローマ神話の主神といった一部の神にのみあてはまる性質であると考えられることになるのです。

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人間は不完全であるがゆえに神ではないのか?それとも不死ではないがゆえに神ではないのか?

そして、以上のような考察に基づくと、神が完全性を有するということのより正確な意味は、

「すべての神は完全な存在である」という全称命題ではなく、(ヤハウェやゼウス、ユピテルといった)ある神は完全な存在であるという特称命題として記述する方がより適切であると考えられることになります。

そして、この命題と、人間は不完全な存在であるという命題の二つの前提となる命題に基づいて三段論法の推論を展開するとした場合、

以下のような二通りの形式によって構成される推論のパターンが考えられることになります。

大前提:ある完全な存在である。(特称肯定命題(I))
小前提:すべての人間完全な存在ではない。(全称否定命題(E))
 結論:ゆえに、すべての人間ではない。(全称否定命題(E))

大前提:ある完全な存在である。(特称肯定命題(I))
小前提:すべての人間完全な存在ではない。(全称否定命題(E))
 結論:ゆえに、ある人間ではない。(全称否定命題(O))

そして、上記の二通りの三段論法の形式を用いた推論のうち、はじめの推論の形式は第二格IEEに、次の推論の形式は第二格IEOにそれぞれ該当することになるのですが、

詳しくは、第二格に分類される64通りの三段論法の格式の具体例と推論の妥当性の検証で考察したように、両者の推論形式は両方とも誤った三段論法の形式に該当することになるので、

結論としては、ある神は完全な存在であるという命題からは、すべての人間は神ではないという命題も、この全称命題の主張を特称命題へと弱めたある人間は神ではないという命題も論理的に妥当な形で論証することができないと考えられることになるのです。

・・・

そして、これに対して、前回考察したように、

不死であるという神の性質は、古今東西のあらゆる宗教におけるすべての神に共通する性質であると考えられ、

すべての神は不死であるという前提となる命題から「人間は神ではない」という結論を導き出す

大前提:すべての不死である。(全称肯定命題(A))
小前提:すべての人間不死ではない。(全称否定命題(E))
 結論:ゆえに、すべての人間ではない。(全称否定命題(E))

という三段論法の推論は、24種類の妥当な三段論法の形式のうちのAEEを用いた正しい三段論法の形式を用いた推論に該当すると考えられることになります。

したがって、以上のような三段論法の形式を用いた推論のあり方の比較考察に基づくと、

人間が神ではないという命題は、知性や能力の完全性ではなく、存在の永遠性や不滅性としての不死性に基づいてのみ論理的な妥当性を満たす形で論証がなされることになると考えられることになります。

つまり、そういう意味では、神の人間に対する特権性、すなわち、神と人間とを分け隔てる一義的な性質は、

神が有する能力の大きさ知性の卓説性よりも、むしろ、すべての神々は不死なる存在であるという神々自身の存在の永遠性や不滅性にこそ求めることになると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:神の存在証明において実在性の論証の対象となる神の定義とは何か?完全性と絶対性を有する創造主としてのキリスト教的な神

前回記事:三段論法に基づく「人間は神ではない」という命題の形而上学的な論証、妥当な三段論法の形式を用いた推論の具体例③

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