「日出づる処の天子」とは誰か?①候補となる四人の人物の名前とは?『隋書』における倭王多利思比孤の記述との関係性

前回書いたように、7世紀頃に編纂された中国の歴史書である『隋書』では、そのなかの東夷伝倭国条」と呼ばれる箇所において、

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という日本史の資料などにおいて出てくる有名な一節が記されています。

上記の文言は、聖徳太子が摂政を務めていた時代の日本の朝廷から、当時、中国全土の統一を果たしていた王朝である隋の煬帝へと送られた国書のなかに記されていた文言であると考えられることになるのですが、

それでは、こうした日本から隋へと送られた国書の文言のなかで語られている「日出づる処の天子」とは、具体的にはいったい誰のことを指していると考えられることになるのでしょうか?

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隋の煬帝と推古天皇の在位期間の比較と『隋書』における倭王多利思比孤

まず、

冒頭で挙げた日本の朝廷からの国書が送られた相手である隋の第2代皇帝であった煬帝(ようだい)が帝位に在位していた期間は604年から618年までの14年間であり、

こうした隋の煬帝の在位期間は、日本における推古天皇(すいこてんのう、在位592年~628年)の在位期間の内にすべて含まれることになるのですが、

こうした日本最初の女帝である推古天皇の時代の日本においては、

仏教と大陸文化の日本国内への導入を目指した聖徳太子の主導のもと、607小野妹子(おののいもこ)の派遣を中心とする遣隋使の派遣が積極的に進められていくことになります。

そして、

こうした『日本書紀』などにおける日本の朝廷の側からの遣隋使の派遣の記録に対応する形で、

中国側の史料である『隋書』のなかでは、600年と607年の二回に渡って倭国、すなわち、日本からの使者が遣わされたという記録が残されているのですが、

そこでは、倭国の王である多利思比孤(たらしひこ/たりしひこ)と呼ばれている人物が、煬帝に使者を使わして、国書を奉呈したという記述がなされています。

したがって、

そうした隋の煬帝へと送られた国書の文言のなかにある「日出づる処の天子」という言葉は、直接的には、こうした『隋書』東夷伝倭国条において記されている倭王多利思比孤のことを意味していると考えられることになるのですが、

そうすると、

こうした時系列の関係にそのまま従えば、

『隋書』において記されている倭王多利思比孤、そして、隋の煬帝へと宛てた国書の送り主である「日出づる処の天子」とは、

煬帝と同時代に日本の朝廷において天皇の地位にあった推古天皇のことを意味しているとも解釈することができると考えられることになるのです。

男性の王である多利思比孤と天皇の代理人としての聖徳太子の立場

しかし、その一方で、

『隋書』のなかにおける倭王多利思比孤についての記述のなかには、多利思比孤には妻がいて、その他にも、後宮には600700人の女性が仕えていたという記述がなされていて、

こうした『隋書』における多利思比孤についての記述に基づくと、倭王である多利思比孤は、妻を持つ人物、すなわち、男性であるということが示されているとも考えられることになります。

ちなみに、

推古天皇の治世の前後の時代、日本の朝廷は、新たに即した天皇が次々に早世してしまうという混乱期にあたっていて、

推古天皇の先代には、彼女の異母弟にあたる崇峻天皇(すしゅんてんのう、在位587年~592年)、さらに、その先代には、用明天皇(ようめいてんのう、在位585年~587年)がそれぞれ数年程度の極めて短い在位期間で崩御していってしまうことになります。

つまり、そういう意味では、

こうした推古天皇の先代や先々代にあたる男性天皇である崇峻天皇用明天皇といった人物についても、

『隋書』における倭王多利思比孤、すなわち、「日出づる処の天子」の候補となる人物として挙げることができると考えられることになります。

また、もう一つ別の見方をしてみるならば、

こうした隋への国書における文言の起草を主導していた人物であると考えられる聖徳太子についても、彼は、天皇に代わって政治を執り行う役割を担っている摂政という立場にあったことから、

彼は、まさに、そうした天皇の代理である摂政としての立場から、冒頭で挙げたような国書における一連の文言を起草したとも考えられることになるので、

そういった意味では、

こうした隋への国書の文言を起草したと考えられる聖徳太子自身が、天皇の代理である自分自身のことを暗に指して、「日出づる処の天子」という言葉を用いたと考えるのも、そこまで無理であるとまでは言えない解釈のあり方であると考えられることになるのです。

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『新唐書』の東夷伝日本伝における多利思比孤と用明天皇の記述

そして、その一方で、

今度は再び中国側の史料へと戻って、倭王多利思比孤についての記述を追っていくと、

隋の時代のすぐ後に中国を統一した王朝である唐の時代の正史とされる『新唐書』(しんとうじょ)東夷伝日本伝のなかの記述においては、

倭王である多利思比孤と、日本の天皇家における歴代の天皇との関係のあり方がより明確な形で示されていて、

そこでは、

『隋書』東夷伝倭国条において記されている倭王多利思比孤とは、用明天皇のことであるという記述がなされています。

つまり、

こうした中国側の史料である『新唐書』の記述に基づくと、時系列的な関係の不整合性はいなめないものの、

隋の煬帝と同時代に天皇として在位していた推古天皇にさかのぼること二代前用明天皇こそが、倭王多利思比孤、すなわち、「日出づる処の天子」にあたる人物であったとも解釈することができると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

日本の朝廷から隋の煬帝へと送られた国書のなかに記されていたとされる

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という文言における「日出づる処の天子」が、具体的には誰のことを指しているのか?ということについては、

隋の煬帝と同時代に日本を統治していた日本最初の女帝である推古天皇

②推古天皇の先代の男性天皇である崇峻天皇

③推古天皇の先々代の男性天皇にあたり、中国側の史料である『新唐書』東夷伝日本伝においても記述がなされている用明天皇

④国書の文言の起草を主導した人物であると考えられ、天皇の代理人である摂政の立場にもあった聖徳太子自身

という全部で四通りの解釈が成り立つと考えられることになります。

そこで、次回の記事では、

こうした推古天皇崇峻天皇用明天皇、そして、聖徳太子という候補となる四人の人物のなかで、

直接的には、特に誰のことを指して「日出づる処の天子」という言葉が用いられていると考えるのが最も妥当な解釈であると考えられるのか?ということについて、さらに詳しく吟味していきたいと思います。

・・・

次回記事:「日出づる処の天子」とは誰か?②用明天皇から推古天皇と聖徳太子へと続く朝廷における崇仏派の系譜と三者一体の解釈

前回記事:「日出づる」と「日出ずる」はどちらが正しい表記なのか?『隋書』東夷伝倭国条における「日出づる処の天子」の記述

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