ただ生きるのではなく、善く美しく生きることの価値、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?④

前回書いたように、

国法を破って牢獄からの逃亡を図ろうとするソクラテスに対して、国法と国家は、

善と正義を説いて回ることを生涯をかけた仕事としているソクラテス自身が、人間の社会における道徳の最も確固たる基準である国法を破り、これを公然と踏みにじる者であるとするならば、

そのような不正を行う人物が説く善と正義についての教説に対して耳を傾ける者は誰もいなくなるだろうと諭します。

そして、

国法と国家は、さらにたたみかけるようにして、ソクラテスに対して以下のように問いかけていくことになるのです。

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ただ生きるのではなく、善く美しく生きることの価値

むしろお前は、こうした(善き国法のもとにあるテーバイやメガラのような都市がある)地方から立ち退いて、クリトンの友人たちを頼って(無法者たちの住む)テッサリアへと行こうとでもするのだろう。…

そうすると、お前は万人に身を屈して奴隷のようになって生きていかなければならないだろう。そこまでしてお前はテッサリアに行って何をしようというのだ?ただ食事にありつくこと以外には、あたかもテッサリアへと逃げのびたのは食べ物を恵んでもらうためであったかのように!

(プラトン著、『クリトン』、第15節)

つまり、

不正を働き、自らが果たすべき責任から逃れ続けながら、ただ食べ物にありつくことだけを目的に生きていくことには価値がなく、

人間が人間らしく生きるためには、ただ食事にありつき命をながらえ続けるだけではない、何かそれ以上のものが求められているということです。

そもそも、ソクラテスの思想においては、

常に、善美なるものについての知の探究と、そのような知に基づいて、自分自身の生き方としても善く美しく生きることが求められていくことになるのですが、

ここでも、ソクラテスは、国法と国家という仮想の対話相手の口を借りることによって、

人間が人間として生きることには、単に食事をしたり、欲求を満たして生きながらえること以上の目的と価値があり、

ただ生きるのではなく善く美しく生きることにこそ価値があるということを主張していると考えられることになるのです。

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自らの生き方を否定してまで生きながらえることの意味

そして、別の箇所では、
国法と国家たちは、次のようにも、問いかけてくることになります。

それならばお前は、この先ずっと、秩序ある国々と正義を愛する人々のもとを避けて生きていくつもりなのか?

お前は、そのような真似をしてもなお、自分の人生に生き甲斐があると思うのか?

(プラトン著、『クリトン』、第15節)

つまり、

国法を破って脱獄を図り、うまく国外へと逃げのびることができたとしても、

そのことによって、正義を愛する人々から恥知らずと蔑まれ、自らが犯した不正に対して自分自身でも恥じ入りながら、惨めな余生を送ることになるとするならば、

そのような不正を犯してまで生き延びることに価値はないのではないか?ということが問いかけられているということです。

そして、

ソクラテスは、このような国法と国家からの問いかけに対して、

自らの語る思想を自らの生き方によって否定するような不正な行為を犯してまで生きながらえた先にある人生は、自分にとって生きるに値しないものであると結論づけることになります。

なぜならば、

そのような不正を犯してまでただ生きながらえるだけの生き方は、ソクラテスが求める善く美しく生きる生き方とはかけ離れた生き方であり、

そのような生は、ソクラテスにとって意味がない無価値なものということになってしまうからです。

・・・

以上のようにして、ソクラテスは、

法を破るという不正を犯してまで生き延びる道よりも、法に従って正義をまっとうするためには死をも受け入る道を歩む決意を固めることになり、

そのような死に方を、自分にふさわしい、最も自分らしい生き方として、自らの意志によって選び取っていくことになります。

そして、このことは、

悪法もまた法なり」という言葉として解釈されることが多いソクラテスの思想の真意は、

決して、長い物には巻かれよと言われるような、国法や国家からの外圧に押されてそれらの強大な権力の前に屈服して従うことを良しとすることにあるのではなく、

それは、むしろ、自分自身の生き方の問題として、

ただ生きるのではなく善く生きるためには、国法を破るという不正を犯してまで生き延びることには意味がなく、

人間の社会における道徳の基準となっている国法の定めに従うことを自らの意志によって選び取ることにこそ生きる価値があるということを示していると考えられることになるのです。

そして、このように考えていくと、最後に、

ソクラテスが自らが善く生きるために従うことを選び取っているとされるアテナイの国法とは、果たしてその国法自体が悪い法律、すなわち、悪法であると言えるのか?という疑問が浮かび上がってくることになるのです。

・・・

次回記事悪いのは法か?それともそれを用いる人間の心か?「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?⑤

前回記事:自らの不正を自らの行いによって認める者、「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったのか?③

関連記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道

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