「無知の知」の由来と自分が知らないことを自覚する知のあり方、ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈①
通常は「無知の知」と呼ばれることが多い、ソクラテスが主張する人間の認識における否定的な知のあり方について、
それが具体的にどのような知のあり方なのか?という問題については、ソクラテスの無知の知とは何か?のシリーズで詳しく書きましたが、
ここでは、
そうしたソクラテスにおける否定的な知のあり方のことを指し示す日本語における
表現である「無知の知」という言葉の由来と、
それが、他にどのような言葉によって表現されうる概念なのか?という問題について考えてみたいと思います。
「無知の知」の由来と自分が知らないことを自覚する知のあり方
まず、
ソクラテスの知の探究において探究の対象となる知のあり方については、『ソクラテスの弁明』の中などで、「善美なるもの」という表現が用いられているだけで、
ソクラテス自身の言葉で「無知の知」という表現が直接語られている箇所は存在しないと考えられることになります。
それでは、
ソクラテスにおけるどのような思想のことを念頭において「無知の知」という表現が用いられているのか?という「無知の知」という言葉の由来について考えてみると、
それは、例えば、『ソクラテスの弁明』の中に出てくる、ソクラテスがある政治家との対話を終えた後で自らの知のあり方を吟味する場面において語られている、以下のような記述に由来する概念であると考えられることになります。
私の方があの男よりは知恵がある。なぜかといえば、私も彼も善美なるものについては何も知っていないと思われるが、彼は何も知らないのに何かを知っていると思い込んでいるのに対して、私は何も知りもしないがそれを知っているとも思っていないからである。
それゆえ、自分が知らないことを知っているとは思っていないという限りにおいて、私はあの男よりも少しばかり知恵があると思われるのである。
(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第6節)
つまり、ソクラテスは、
人間にとって真に重要な知である善美なるものの知について、
対話相手である政治家が、自分が知らないことについても知っていると思い込んでいるのに対して、
ソクラテス自身は、自分が知らないということをはっきりと自覚しているという点において、ソクラテスの知のあり方の方が優れていると主張しているということです。
そして、
ソクラテスの知の探究のあり方について語られている『ソクラテスの弁明』におけるこの部分の知のあり方のことを指して、それが日本語では、「無知の知」と呼ばれる概念へとつながっていると考えられることになるのです。
ソクラテスの否定的な知のあり方に対する四パターンの可能な解釈
こうしたソクラテスにおける「自分が知らないということを自覚する」という知のあり方は、
「知らない」ということについての知というある種の否定的な知のあり方として解釈することができると考えられますが、
そうすると、ここで、
この「知らない」ということについての知を表現する日本語の候補としては、「無知の知」以外の表現もあり得るのではないか?という疑問が生じてくることになります。
日本語では、「~がない」、「~でない」といった打消しの意味を表す接頭辞には、主に、「無」、「不」、「非」、「未」の四つの漢字が使われることになりますが、
ソクラテスが主張する上記の否定的な知のあり方についても、これらの日本語における四つの打消しの接頭辞の区別に対応して、
「無知の知」、「不知の知」、「非知の知」、「未知の知」
という四つの異なる表現の仕方が可能となると考えられるのです。
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そして、
これらの「無」、「不」、「非」、「未」という四つの打消しの接頭辞の内のいずれの接頭辞を用いるのか?という語句の選択の違いに応じて、
ソクラテスが主張する上記の否定的な知のあり方が意味する内容自体の解釈のあり方も微妙に異なってくると考えられることになるのですが、
次回は、
こうしたソクラテスにおける否定形の知のあり方に対する解釈としては、「無知の知」、「不知の知」、「非知の知」、「未知の知」という上記の四つの可能的な表現の内、どの表現がより適切な解釈と言えるのか?ということについて考え、
そのことを通じて、通常は「無知の知」と呼ばれることが多い、ソクラテスの否定的な知の概念について、また別の角度から吟味していきたいと思います。
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次回記事:非知の知と未知の知か?それとも無知の知と不知の知か?ソクラテスにおける否定的な知のあり方の四つの解釈②
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