シチリア島とイタリア学派の残滓、共和政ローマとアルキメデス
前回の記事で書いたように、
古代ギリシア哲学の一派である
イタリア学派の発展は、
政治的・地理的概念としては、
マグナ・グラエキア(Magna Graecia、大ギリシア)と呼ばれた
イタリア半島南部からシチリア島にかけての
ギリシア人諸都市の勢力圏とほぼ一致することになるのですが、
こうしたイタリア学派とマグナ・グラエキアの繁栄はいつまで続き、
それはどのような形で終焉を迎えることになったのでしょうか?
紀元前3世紀頃の共和政ローマとマグナ・グラエキア
紀元前8世紀頃からギリシア人による入植が進み、
紀元前5世紀前後には、思想的にも政治・経済的にも
その繁栄のピークを迎えていたマグナ・グラエキアは、
ローマ帝国の前身である
共和政ローマがイタリア半島全域へと
勢力範囲を拡大させていくにしたがって、
北方からのローマ人の圧力を強く受けるようになります。
その一方で、
地中海南岸の北アフリカでは
フェニキア人都市国家である
カルタゴが勢力範囲を拡大させていき、
シチリア島周辺の
ギリシア人都市国家との衝突を繰り返すようになります。
上記の地図で示したように、
紀元前3世紀頃の地中海世界において、
南イタリアとシチリア島に居住するギリシア人たちは、
北方から迫り来るローマと
南西から触手を伸ばすカルタゴとの間で板挟み状態になるという
窮地へと陥ることになってしまったのです。
イタリア学派の残滓とシチリアのアルキメデス
急速に勢力範囲を拡大していくローマは、
イタリア半島全域の統一に向けて
半島南部のギリシア人諸都市を次々に征服していきます。
早くも紀元前272年には、
南イタリアにおけるギリシア人都市国家の最後の拠点であった
タレントゥムを陥落させ、
ここにおいて、マグナ・グラエキアの主要地域であった
南イタリアのギリシア人都市国家は、
そのすべてがローマの手中へと帰することになります。
それでも、
イタリア学派とマグナ・グラエキアの残滓は
辛うじてシチリア島において存続することになるのですが、
ローマとカルタゴが地中海の覇権をめぐって争った最大の戦争である
第二次ポエニ戦争(紀元前219年~201年)の最中、
シチリア島のギリシア人都市国家である
シラクサ(Siracusa、古代ギリシア語ではシュラクサイ)が
カルタゴの名将ハンニバルの側につくと
これをローマの大軍が包囲し、
都市国家シラクサとローマ軍との間で
激しい籠城戦が繰り広げられることになります。
このとき、
ギリシア人都市国家のシラクサにおいて、
学者の身分でありながら、軍師のような働きをしてローマ軍を苦しめた人物が
浮体の原理(アルキメデスの原理、水などの流体の中にある物体は、それが押しのけた流体の重さの分だけ軽くなるという浮力が生じることを示す原理。具体的には、お風呂やプールの中に入ると陸上にいる時よりも体が軽くなることや、船が海の上に浮かぶことを説明する原理のこと。)
などの物理学や数学上の発見や発明で有名な
アルキメデス(Archimedes)だったのですが、
そういう意味では、
シチリア島に残された
最後の自立したギリシア人都市国家であるシラクサが
古代ギリシア・ローマ世界において残された
マグナ・グラエキアの最後の一角であったのと同様に、
学者アルキメデスは、南イタリアとシチリア島で発展した
ギリシア人の思想活動であるイタリア学派の最後の末裔であり、
滅びゆくイタリア学派の最後の光が生んだ
傑出した人物として捉えることができるかもしれません。
シラクサの陥落と学者アルキメデスの死
アルキメデスは、
鏡の塔(高所に設置した大型の放物面鏡を使って太陽の光を一点に集中することにより敵の船を焦がしたり、敵の目をくらましたりする兵器)や
通常の射程の三倍もあるような巨大なカタパルト(Catapult、投石器)、
敵陣に太矢を打ち込むバリスタ(ballista、弩砲、バネ仕掛けで矢を射出する大型の弓)を開発するなど
知略に富んだ様々な奇策と多彩な兵器の開発によって
3年間もの間、陸と海からのローマ軍による攻撃を阻み続けます。
しかし、
こうしたアルキメデスと配下のギリシア人たちの奮戦も虚しく、
多勢に無勢の中、
紀元前212年、ついに、
シチリア島におけるギリシア人都市国家の最後の砦であった
シラクサも陥落を迎えることとなります。
シラクサがローマ軍によって占領され、
シキリア属州(Provincia Sicilia、シキリアはシチリアのラテン語読み)の一部に
編入されることにより、
南イタリアとシチリア島におけるギリシア人都市国家のすべてが
完全にローマの支配下に組み入れられることになり、
そして、
そのシラクサの落城の際に、
それまで学者の身でありながら、ローマ軍を相手に戦闘の指揮をとってきた
アルキメデスも、その命を落としてしまうことになるのです。
アルキメデスの死については、
シラクサ陥落後にローマ軍が乗り込んできた際に、
地面の上に図形を描いて幾何学の問題を解いていたアルキメデスが
踏み込んできたローマ兵に対して
「私の円を乱すな」((英)”Do not disturb my circles.“)
と咎めたところ、
このことに腹を立てたローマ兵によって斬り殺されてしまった
という逸話が有名ですが、
実際には、占領の混乱の際のどさくさのなかで、
アルキメデスと分からずに殺されてしまったというのが
史実に一番近いアルキメデスの最期であったようです。
・・・
いずれにせよ、以上のように、
シラクサの陥落と
アルキメデスの死によって、
マグナ・グラエキアとイタリア学派における
自立的で自由な思想上および政治・経済上の繁栄は
完全なる終焉を迎えることになるのですが、
この時代までに
マグナ・グラエキアにおいて培われ、
この地域のギリシア人たちによって築き上げられてきた
イタリア学派を代表とする
学問的知識の多くは、新たな支配者である
共和政ローマ、さらにその後のローマ帝国へと引き継がれ、
ローマ帝国内の学者や哲学者たちへと
その思想と知識が受け継がれていくことになるのです。
・・・
このシリーズの前回記事:「古代ギリシア哲学はイタリアを中心に発展した?マグナ・グラエキアとイタリア学派の関係とは?」
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