ペイシストラトスの僭主政における中小農民の台頭とアテナイにおける平野党と海岸党と山地党の三つ巴の政治対立
前回書いたように、不正な裁判の横行や経済的な格差の拡大をめぐって貴族と平民が激しく争い合っていたアテナイにおける政治的な混乱状態は、
紀元前594年に行われたソロンの改革による負債の帳消しや財産政治の導入といった政策によって一定の調停がもたらされることになります。
しかしその一方で、こうしたソロンの改革を経ても、アテナイにおける経済格差といった社会的な矛盾が根本的に解決されたわけではなかったため、
その後もこうした貴族と平民あるいは富者と貧者との間における対立関係は長い間続いていくことになります。
アテナイにおける平野党と海岸党の対立と山地党の台頭
そして、
こうしたソロンの改革後のアテナイにおける政治的な対立構造は、従来の貴族と平民の間における比較的単純な二項対立の関係から、
やがて、ソロンの方針にならって両者の間の中道的な政治体制の確立を目指す人々も現れていくことによってより複雑な対立構造へと変化していくことになります。
具体的には、
こうしたソロンの改革後の紀元前6世紀前半のアテナイにおいては、当初は、
アテナイが位置するアッティカ半島の平野部を地盤とする地主の一派である平野党と、アッティカ半島南部の海岸部を地盤とする海上交易を主体とする商人の一派である海岸党に分かれて政争が繰り広げられていくことになり、
平野党の人々がソロンの改革以前に行われていた少数の貴族を中心とする寡頭政治の復活を求めていたのに対して、海岸党の人々はソロンの改革の遺産を引き継いで貴族と平民の間の調停を図るより中道的な政治体制の実現を目指していくことになります。
そして、
こうしたアテナイにおける平野党と海岸党との政治対立のなかで、そのどちらにも属していなかった中小農民や貧民たちの存在に目をつけたペイシストラトスと呼ばれる人物が、
土地などの生産手段を持たない無産者階級にあたる中小農民や貧民たちを主体とする高地党または山地党と呼ばれる第三の派閥を新たに築き上げることによって、より急進的な民主政の実現を求めていくことになり、
こうしてアテナイにおける三つ巴の政治対立がさらなる混迷を深めていくことになっていったと考えられることになるのです。
ペイシストラトスによる僭主政の確立と立法者ソロンの死
ペイシストラトスは、彼自身はソロンの親戚にもあたる名門の家柄の出身であったものの、巧みな話術を駆使して自らの支持基盤である中小農民や貧民たちの民意を結集していくことによって、
当時のアテナイの政界における第三の派閥へと台頭していくことになった山地党の首領として政界で名を上げていくことになります。
そして、その後、
アテナイの隣国であったメガラとの戦争において軍事指揮官としても名声を上げたペイシストラトスは、
反対派による暗殺未遂を偽装して自らの体を傷つけることによって、アテナイ市内において自らの身を守る護衛兵たちを引き連れる権限を与えられることになり、
紀元前561年、ペイシストラトスは、こうした自らの私兵にあたる護衛兵たちを率いてアテナイの中心部にあたるアクロポリスを占拠することによって、
軍事力などを用いた非合法の手段によって政権を掌握する僭主政(せんしゅせい)を確立することに成功することになります。
ちなみに、
こうしてペイシストラトスがアテナイ市内において護衛兵を引き連れる権限を得ることになった際には、
彼の親戚にあたりすでに政界からは引退していた老齢のソロンが、ペイシストラトスの僭主への野心を見抜いてその試みに強く異を唱えたとも伝えられています。
そして、その後、
ソロンは、法の支配に基づかない僭主政を嫌ってアテナイの地を離れたのち、現在のトルコの南に位置する東地中海の島であるキプロス島において80歳でその生涯を閉じたとも伝えられていて、
その遺体は火葬されたのち、遺灰は彼の遺言に従って、
詩人としてのソロンがその名文によってアテナイの人々を鼓舞してメガラの支配下にあったサラミス島の奪還へと駆り立てたことで知られる『サラミス』の詩の題材にもなったアテナイにほど近いサラミス島の周りの海へと葬られることになったとも語り伝えられているのです。
ペイシストラトスの治世における中小農民の台頭とアテナイの国力の増大
そして、
こうしたペイシストラトスの僭主政においては、基本的にはソロンの改革によって定められたアテナイの国制は維持されたまま、自らの支持基盤であった中小農民や貧民たちへの保護政策が行われていくことになり、
ペイシストラトスの軍によって粛清されることを恐れて他国へと逃げていった亡命貴族たちの土地を没収することによって貧民への土地の再分配が行われたほか、貧困層への資金の貸与や困窮者への免税といった政策も実施されていくことになります。
また、
僭主としてのペイシストラトスは、後世の資料によれば、決して人々を虐げるような暴君だったわけではなく、むしろ、市民たちの意見をよく聞いて政治を行う民主的な人柄であったと伝えられていて、
ペイシストラトスの治世においては、中小農民が力をつけて台頭していくと同時に商業や手工業なども発達していくことによって、アテナイの国力が大きく増大していくことになり、
こうしたソロンの改革とペイシストラトスの僭主政を通じて、アテナイはスパルタと並び称される古代ギリシアにおける有力な都市国家として台頭していくことになっていった考えられることになります。
そして、
こうしたアテナイにおけるペイシストラトスの僭主政の時代は、途中に貴族たちの反乱による2回の国外亡命などの断絶をはさみつつ30年間にわたって続いていくことになり、
紀元前527年にペイシストラトスが死去すると、彼の息子にあたるヒッピアスがその後を継いでアテナイの僭主の座へと就くことになるのです。
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