オリンピックのマラソン競走における世界三大悲劇とは?古代から現代へと続く長距離の競走競技における三つの悲劇の物語
前々回 と 前回の記事で書いてきたように、古代から近代へと続くオリンピックの競技においては、
マラソン競技の原型となったドリコス走と呼ばれる古代ギリシアの長距離走において起きた出来事であるとされている「ラダスの死」、
そして、その後の近代オリンピックの第4回大会にあたる1908年のロンドンオリンピックのマラソン競走において起きた「ドランドの悲劇」といった出来事がたびたび繰り返されていくことになってきたと考えられるのですが、
こうした古代から近代のオリンピックへと続くマラソン競技における重大な悲劇として位置づけられている出来事としては、さらにもう一つ、「ラザロの死」と呼ばれる出来事も挙げられることになります。
そこで、今回の記事では、こうした「ラダスの死」と「ドランドの悲劇」そして「ラザロの死」というオリンピックのマラソン競技における世界三大悲劇としても位置づけられることになる三つの出来事について、それぞれ順番に書いていきたいと思います。
古代ギリシアの長距離走の選手であったラダスの死の悲劇
そうすると、まず、
こうした古代から近代へと続くオリンピックの競技のなかでも、特に、現代のマラソン競技へと通じる長距離走の種目において起こったとされる第一の悲劇としては、
紀元前440年に行われた古代オリンピックの第85回大会のドリコス走と呼ばれる古代の長距離走にあたる競技において起こった「ラダスの死」と呼ばれる悲劇が挙げられることになります。
アルゴスまたはスパルタの出身として伝えられているラダスと呼ばれる古代ギリシアのオリンピック選手は、
古代ギリシアの詩人たちによって、地面にかかとを着くのも見えずにつま先だけで飛ぶように走ると讃えられた俊足のランナーであったと伝えられているのですが、
そうした俊足のラダスは、長い道のりを走り終えてゴール地点へとたどりついた瞬間に、激しい疲労のために意識を失ってその場に倒れ込んでしまい、そのまま意識を取り戻すことなく命を落としてしまうことによって、
古代オリンピックの競走競技における最初の死者となった人物として語り伝えられているのです。
ロンドンオリンピックにおけるドランド・ピエトリの悲劇
そして、それから2000年以上の時を経て、
1896年に、近代オリンピックの第1回大会にあたるアテネオリンピックがギリシアの地において開催されることになると、
さらに、その後の近代オリンピックの第4回大会にあたる1908年のロンドンオリンピックのマラソン競走において「ドランドの悲劇」と呼ばれる第二の悲劇が起きてしまうことになります。
イタリア出身のマラソン選手であったドランド・ピエトリは、イギリスのロンドンでは珍しい異常な暑さに見舞われるなか、スタート地点であったウィンザー城を出発し、
その後、ロンドンの市街地をめぐる42kmのコースを走破したうえで、ほぼ独走の状態でオリンピックスタジアムへと到着することになるのですが、
スタジアムに鳴り響く勝利者を讃える歓喜の声に迎えられて、自分がゴール地点に到着したのだと錯覚してしまったピエトリは、そのままゴール直前のスタジアムの入り口付近で倒れ込んでしまうことになります。
そして、本当のゴールはまだ先にあることを告げられたピエトリは、その後も4度にもおよぶ転倒のたびに再び立ち上がり、
その悲痛な姿を黙って見ているのに耐えられなくなった係員たちによって体を支えられながら、自らの力で這うように前へと進み続けていくことになるのですが、
その後、こうした係員の補助を受けてゴールしたという彼の行為が、マラソン競技の規定違反にあたる行為として失格となることによって、
こうしたロンドンオリンピックにおけるピエトリの競技記録は、正式な記録からは抹消されてしまうことになります。
そして、
そうした果てしない苦難の末にマラソンの勝利をつかみながら、のちにその記録が抹消されることによって幻の勝利に終わることになってしまったピエトリ選手の身に起きた悲劇は、
その後、ドランド・ピエトリその人の名前をとってドランドの悲劇と呼ばれていくことになっていったと考えられることになるのです。
ストックホルムオリンピックにおけるフランシスコ・ラザロの死の悲劇
そして、
こうした近代オリンピックのマラソン競技における悲劇は、そうした1908年のロンドンオリンピックにおけるドランドの悲劇で終わることなく、
その次の大会にあたる1912年のストックホルムオリンピックにおいても、こうしたドランドの悲劇を超えるオリンピックのマラソン競技における第三の悲劇が実際に起きてしまうことになります。
1912年のストックホルムオリンピックのマラソン競走においては、前回大会のロンドンオリンピックを超える気温40度にもおよぶ酷暑のなかで競技が行われていくことになり、
そうした猛烈な暑さのなか、ポルトガルのマラソン選手であったフランシスコ・ラザロは、出場選手68人のうちのほぼ半数にもおよぶ33人が途中棄権するという異常事態が進行していくなか、激しい暑さと喉の渇きに耐えてひたすら走り続けていくことになります。
そして、給水所があった30kmの地点をこえたゴールまで残り8kmほどの地点までたどり着いたラザロは、ついにその場で意識を失って倒れ込んでしまうことになり、
救助隊員と医療スタッフたちによって夜通しで続けられた懸命な治療も虚しく、彼は、競技が行われた日の翌朝の6時に死去してしまうことになります。
ちなみに、こうした「ラザロの死」と呼ばれる有名な話としては、
キリスト教の聖典にあたる新約聖書の「ヨハネによる福音書」にも同じラザロという名の人物が登場することになるのですが、こちらのベタニアのラザロと呼ばれるラザロは、病に伏して死んだのち、
イエスの言葉によって墓の中から呼び出され、死者の中からよみがえることによって死からの復活を遂げることになったと伝えられています。
しかし、
こうした1912年のストックホルムオリンピックにおいて行われたマラソン競走においては、そうした聖書におけるラザロの奇跡が起こることはなく、
ポルトガルのマラソン選手であったフランシスコ・ラザロは、近代オリンピックにおける最初の死者となってしまうことによって、
古代から現代へと続くオリンピックのマラソン競技における三つ目の悲劇の主人公となった人物として語り伝えられていくことになっていったと考えられることになるのです。
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前回記事:ドランドの悲劇とは何か?ロンドンオリンピックでのピエトリの幻のゴールと古代ギリシアのマラソンにおけるラダスの死
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