完璧の語源とは?①名玉がもたらした趙の国の絶体絶命のジレンマと秦王を欺いた完璧の使者

日本語においては、欠点がまったくないこと、完全に物事を執り行うことなどを指して、完璧(かんぺき)という表現が用いられることになりますが、

こうした完璧という言葉の漢字表記において、璧(へき)という字の下部分が壁(かべ)のように土ではなく玉となっていることからも分かる通り、

それは、直接的には、まったくきずのない玉完全無欠の宝玉のことを語源とする言葉であると考えられることになります。

そして、

こうした完璧という言葉の語源となった古代中国の故事においては、さらにもう少し深い含蓄を持ったエピソードとして、こうした完璧という言葉の由来が示されていくことになるのです。

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和氏の璧という名玉がもたらした趙の国の絶体絶命のジレンマ

紀元前3世紀中国の戦国時代の末期の時代、

秦と楚という戦国時代における二つの大国の間に挟まれる位置にあった韓・魏・趙という三つの小国のうちの一国であった(ちょう)の国において、第7代君主であった恵文王(けいぶんおう)はある時、

和氏の璧(かしのへき)と呼ばれる名玉を手にいることになります。

そして、

このことをうわさに聞きつけた隣の大国である昭襄王(しょうじょうおう)は、そのような名玉はぜひ自分のものにしたいと考え、

趙の国に使者をつかわし、15の城をもって璧との交換をしたいという申し入れをすることになります。

しかし、

この昭襄王とは、のちに戦国の七雄すべてを征服して中国全体を統一することになる秦の始皇帝の曾祖父にあたる人物であり、当時においても秦は七国の中で一二を争う強国であり、他国を力によって征服しようとする貪欲な国として知られていて、

申し出を素直に受け入れて、いったん璧を渡してしまえば、秦はあれこれと難癖をつけて、代わりに15の城を渡すという約束はすぐに反故にされてしまうと考えられ、

その一方で、秦の申し出を無視して、璧を渡すことを拒んでしまえば、秦はそれを口実に攻め込んできて、力づくで璧を奪い取り趙の国ごと滅ぼしてしまうことになるかもしれないという重大な問題が生じてしまうことになります。

つまり、

こうした恵文王の治世の時代の趙の国では、和氏の璧という名玉を手に入れるという幸運に恵まれてしまったがゆえに、

その名玉を大国である秦に渡さなければ、それを口実にして秦の大軍が攻め込んでくることによって趙の国は攻め滅ぼされてしまうことになるし、

かといって、名玉を秦に渡したとしても、今度は、趙の国から財宝を奪い取ることに味をしめた秦からは、これからも様々な貢ぎ物を次々に強要され財貨を絞り取られ国力が衰退していくことによって、

結局は最後には趙の国は滅亡してしまうことになるという絶望的なジレンマへと追い込まれてしまうことになったと考えられることになるのです。

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藺相如の巧みな交渉術と秦王を欺いた完璧の使者

そして、

趙の国をこうした絶体絶命のジレンマから救い出すために秦の国へ使者としておもむくことを自ら進んで引き受けたのが、藺相如(りんしょうじょ)という名の知勇共に優れた将であり、藺相如は、

「秦が約束を違えて城を渡さなければ、私が必ず璧を完うして帰ります。」

と誓ったうえで、ごく少数の従者のみを連れて和氏の璧を持って秦の都であった咸陽(かんよう)へとおもむき、そこで秦王に謁見することになります。

すると、案の定、秦の昭襄王は、藺相如から璧を受け取ると、すぐに周りの廷臣や女官たちにそれを見せて自慢しだして、約束通りに城を渡そうとする様子がまったくないので、その様子を静かに見ていた藺相如は、おもむろに前へと進み出て、

「一つ言い忘れていましたが、実はその璧にはきずがあるのです。お教えいたしましょう。」

と偽りを言って、再び秦王から璧を受け取って退くと、

「趙王は、秦王のことを尊んで五日間に渡って自らの身を浄めてから私に命じて璧を送り届させたのに、いかに秦が大国であるとはいえ、その威光をかざして傲慢に振る舞い、我が主君である誠実な趙王のことを愚弄することは許されていいはずがない。もしもこのまま秦王が約束を違えて璧を力ずくで奪い取ろうとするならば我が頭をこの璧もろとも宮殿の柱へと打ちつけて砕いてしまおうぞ。」

と言い放ったので、こうした藺相如の凄まじい気迫舌鋒の鋭さに気圧された秦王は、ひとまず無礼をわびて、改めて趙に与える15の城を図上に示して約束し直したうえで、自らも趙王にならって、五日間に渡って自らの身を浄める斎戒を行うことを承諾することになります。

しかし、

ここまで固く約束を結ばせても、いったん使者である自分が帰ってしまえば、秦王は、結局、城を実際に与えることは惜しくなって、やはり約束を反故にしてしまうであろうということをすでに見抜いていた藺相如は、

秦王に五日間の斎戒を行わせて時間を稼いでいる間に、ひそかに自分の従者に璧を持たせて先に趙の国へと帰還させてしまい、

五日間後に、手ぶらの状態で、再び秦王の前へと進み出ると、藺相如は、すでに自分の手元には璧がないことを告げたうえで、

「一度約束を破ろうとした秦王のことを再び信用するためには、先に行動を示してもらうことが必要であり、先に城を引き渡してからでなければ璧を渡すことはできません。」

と強く主張したうえで、

「先に欺かれたのは趙の側であるとはいえ、使者の立場で秦王を欺いた罪は自分にあるので、どうぞ死罪に処してほしい。」

 と自ら自分の首を差し出すことになるのですが、

こうした一連の藺相如とのやり取りにすでに疲れ果て、その巧みな話術の流れに乗せられてしまっていた秦王は、

もはや、いまさら使者である藺相如を怒りにまかせて斬り殺しても璧が得られるわけでもなく、先に無礼を働いたのが秦の側であるにもかかわらず、趙の側の無礼のみを責め立てても道理が通らないので、

そのまま藺相如を趙の国へと帰国させ、璧と城との交換という申し出自体を自ら取り下げてしまうことになります。

つまり、以上のように、

こうした藺相如が示した決意と覚悟の強さと、その言葉巧みな言説の鋭さに気圧されることによって、和氏の璧は秦に奪い取られることもなければ、実際にきずがつけられるようなこともないまま、無事に趙の国へと持ち帰られることになったので、

こうした藺相如が使者としての働きを十全に果たすことによって、和氏の璧を完全に守りきる、すなわち、璧を完(まっと)うすることができたということを指して、

こうした古代中国における趙の国の故事が、物事を欠けるところなく完全に成し遂げることを意味する完璧という言葉の語源となったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:完璧の語源とは?②完璧の故事で藺相如が守り通した三つの宝とは何か?

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