「過ぎ去るのと無いのとは同じこと」悪魔メフィストフェレスが語る究極のニヒリズム、『ファウスト』の和訳と解釈⑮
前回書いたように、『ファウスト』第二部第五幕では、死の時を迎えるファウストが、自らの計画がついに成し遂げられることを強く実感しながら、大いなる喜びの内に、
「時よとどまれ、お前はいかにも美しい」という『ファウスト』で最も有名な台詞を再び口にする瞬間が訪れます。
そして、それに続く悪魔メフィストフェレスの台詞では、自らが望む理想郷の創造によって、大地に不朽の業績を残したことを確信して歓喜のうちに死んでいったファウストを嘲笑い、
その満ち足りた有意義な死を根本から覆し、すべてを無意味なものへと引き去っていく否定の言葉が語られていくことになります。
『ファウスト』の物語がクライマックスを迎えるこの場面では、悪魔メフィストフェレスの言葉を通じて、この世に存在するあらゆる意味と価値のすべてを否定し、すべての存在を永遠の虚無へと引き去っていく究極のニヒリズムが描き出されていくことになるのです。
メフィストフェレスの究極のニヒリズムが語られる場面のドイツ語原文
『ファウスト』第二部第五幕の「宮殿の大きな前庭(Großer Vorhof des Palasts、グローサー・フォアホーフ・デス・パラスツ)」の章の後半部分では、
歓喜の言葉を語りながら死を迎えるファウストに対して、その姿を嘲笑う形で、メフィストフェレスの言葉が続いていくことになります。
そして、この場面では、
悪魔メフィストフェレスが語る
「過ぎ去るのと無いのとは同じこと」「すべてが無へと引き去られる永遠の創造よりは、むしろ永遠の虚無の方が好き」などといった言葉によって、
究極のニヒリズム(虚無主義)が語られていくことになるのですが、こうした場面は、ドイツ語の原文では以下のように記されています。
・・・
Mephistopheles:
Ihn sättigt keine Lust, ihm g’nügt kein Glück,
So buhlt er fort nach wechselnden Gestalten;
Den letzten, schlechten, leeren Augenblick,
Der Arme wünscht ihn festzuhalten.
Der mir so kräftig widerstand,
Die Zeit wird Herr, der Greis hier liegt im Sand.
Die Uhr steht still –
Chor:
Steht still! Sie schweigt wie Mitternacht.
Der Zeiger fällt.
Mephistopheles:
Er fällt, es ist vollbracht.
Chor:
Es ist vorbei.
Mephistopheles:
Vorbei! ein dummes Wort.
Warum vorbei?
Vorbei und reines Nicht, vollkommnes Einerlei.
Was soll uns denn das ew’ge Schaffen,
Geschaffenes zu nichts hinwegzuraffen?
Da ist’s vorbei! Was ist daran zu lesen?
Es ist so gut, als wär’ es nicht gewesen,
Und treibt sich doch im Kreis, als wenn es wäre.
Ich liebte mir dafür das Ewig-Leere.
究極のニヒリズムが語られる場面のドイツ語文と日本語文の対訳
そして、次に、上記のドイツ語原文を、発音とアクセントの目安を併記したうえで、ドイツ語原文と日本語との対訳形式で一行ずつ訳していくと以下のようになります。
※ただし、ドイツ語文で強調して読まれるアクセントの目安については、ドイツ語文の下に記した発音を示すカタカナ表記を太字で記すことによって示すこととし、
日本語の訳文を書いた後の※印の部分でところどころ簡単な文法上の注釈を付記している箇所があります。
また、ドイツ語文と日本語文との対訳関係がより分かりやすくなるように、日本語文の訳文において重要な意味を担う箇所を太字で記したうえで、それに対応するドイツ語文の箇所も太字にする形で記しています。
・・・
Mephistopheles(メフィストフェレス):
Ihn sättigt keine Lust, ihm g’nügt kein Glück,
(イーン・ゼッティゲン・カイネ・ルストゥ・イーム・グニュークトゥ・カイン・グリュック)
どんな快楽にも満足せず、どんな幸福にも満たされきることがなく、
※g’nügt はgenügen(十分である、足りる)の短縮形。
So buhlt er fort nach wechselnden Gestalten;
(ゾー・ブールトゥ・エア・フォルトゥ・ナーハ・ヴェクセルンデン・ゲシュタルテン)
移り行く姿をどこまでもさらに先へと追い求め続けてきたあの男が、
Den letzten, schlechten, leeren Augenblick,
(デン・レッツテン・シュレヒテン・レーレン・アオゲンブリック)
この最後の、醜悪な、空虚な瞬間を
Der Arme wünscht ihn festzuhalten.
(デア・アルメ・ヴュンシュトゥ・イーン・フェストツーハルテン)
わが目の内にとどめおこうと哀れにも乞い願ったのだ。
※festhalten:引きとめる、しっかりとつかんでいる。
Der mir so kräftig widerstand,
(デア・ミーア・ゾー・クレフティヒ・ヴィーダーシュタントゥ)
俺の力にはしぶとく抗い続けてきた男だが、
※widerstehen:屈しない、抵抗する。
Die Zeit wird Herr, der Greis hier liegt im Sand.
(ディー・ツァイトゥ・ヴィアトゥ・ヘル・デア・グライス・ヒーア・リークトゥ・イム・ザントゥ)
時の力に勝てはしない。老いぼれは砂の中に倒れている。
※Herr:紳士、主人。
Die Uhr steht still –
(ディー・ウーア・シュテートゥ・シュティル)
時計が止まる。
Chor(コーア、合唱):
Steht still! Sie schweigt wie Mitternacht.
(シュテートゥ・シュティル・シュヴァイクトゥ・ヴィー・ミッターナハトゥ)
止まっている。そして真夜中のように黙している。
Der Zeiger fällt.
(デア・ツァイガー・フェルトゥ)
針が落ちる。
Mephistopheles(メフィストフェレス):
Er fällt, es ist vollbracht.
(エア・フェルトゥ・エス・イストゥ・フォルブラハトゥ)
針が落ちていく。そして事は成し遂げられたのだ。
※vollbringen:~を成し遂げる、完成させる。
Chor(コーア、合唱):
Es ist vorbei.
(エス・イストゥ・フォアバイ)
時は過ぎ去った。
Mephistopheles(メフィストフェレス):
Vorbei! ein dummes Wort.
(フォアバイ・アイン・デュンメス・ヴォルトゥ)
過ぎ去った!それは何と愚かな言葉だ。
Warum vorbei?
(ヴァルム・フォアバイ)
なぜ過ぎ去ったなどと言うのか?
Vorbei und reines Nicht, vollkommnes Einerlei.
(フォアバイ・ウントゥ・ライネス・ニヒトゥ・フォルコムネス・アイナーライ)
過ぎ去ったのと、きれいに無いのとは、同じことだ。
Was soll uns denn das ew’ge Schaffen,
(ヴァス・ゾル・ウンス・デン・ダス・エーヴィゲ・シャッフェン)
永遠の創造などというものにいったい何の意味があるというのだ?
※ew’geはewige(永遠の)の短縮形。
Geschaffenes zu nichts hinwegzuraffen?
(ゲシャッフェネス・ツー・ニヒツ・ヒンヴェックツーラッフェン)
創造されたものがただ無へと引き去られてしまうだけの創造に。
※hinwegraffen:~を奪い去る。
Da ist’s vorbei! Was ist daran zu lesen?
(ダー・イスツ・フォアバイ・ヴァス・イストゥ・ダラン・ツー・レーゼン)
過ぎ去るということにどんな意味を見いだすことができるというのだろう?
※ist’sはist esの短縮形。
Es ist so gut, als wär’ es nicht gewesen,
(エス・イストゥ・ゾー・グートゥ・アルス・ヴェル・エス・ニヒトゥ・ゲヴェーゼン)
それならば、はじめから何も無かった方がましではないか。
※wär’はwäreの短縮形。
Und treibt sich doch im Kreis, als wenn es wäre.
(ウントゥ・トライプトゥ・ズィヒ・ドホ・イム・クライス・アルス・ヴェン・エス・ヴェーレ)
それなのに、何かあるかのようにいつまでもぐるぐると回っている。
Ich liebte mir dafür das Ewig-Leere.
(イヒ・リープテ・ミア・ミア・ダフューア・ダス・エーヴィヒ・レーレ)
俺はそれよりはむしろ永遠の虚無の方を愛したのだ。
悪魔メフィストフェレスの究極のニヒリズムが語られる場面の全文和訳
そして最後に、上記のドイツ語文と日本語文の対訳の中から、和訳の部分だけを抜き出して、改めて該当箇所の全文和訳を記す形でまとめ直すと以下のようになります。
・・・
メフィストフェレス:
どんな快楽にも満足せず、どんな幸福にも満たされきることがなく、
移り行く姿をどこまでもさらに先へと追い求め続けてきたあの男が、
この最後の、醜悪な、空虚な瞬間を
わが目の内にとどめおこうと哀れにも乞い願ったのだ。
俺の力にはしぶとく抗い続けてきた男だが、
時の力に勝てはしない。老いぼれは砂の中に倒れている。
時計が止まる。
(死霊たちの)合唱:
止まっている。そして真夜中のように黙している。
針が落ちる。
メフィストフェレス:
針が落ちていく。そして事は成し遂げられたのだ。
(死霊たちの)合唱:
時は過ぎ去った。
メフィストフェレス:
過ぎ去った!それは何と愚かな言葉だ。
なぜ過ぎ去ったなどと言うのか?
過ぎ去ったのと、きれいに無いのとは、同じことだ。
永遠の創造などというものにいったい何の意味があるというのだ?
創造されたものがただ無へと引き去られてしまうだけの創造に。
過ぎ去るということにどんな意味を見いだすことができるというのだろう?
それならば、はじめから何も無かった方がましではないか。
それなのに、何かあるかのようにいつまでもぐるぐると回っている。
俺はそれよりはむしろ永遠の虚無の方を愛したのだ。
・・・
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