ファウストのもとを訪れる四人の灰色の女たちと欠乏・罪責・憂い・困窮という四つの災厄の名、『ファウスト』の和訳と解釈⑩
前回書いたように、『ファウスト』第二部第五幕の「深夜」の章で歌われるリュンコイスの詩の後半部分では、暗闇の中に突如として広がる炎によって眼下に広がる美しい景色のすべてが焼き尽くされてしまうという炎の惨劇のあり様が描かれていきます。
そして、後になってファウストは、この大火事は悪魔メフィストフェレスとその手下によって引き起こされたものであり、
その大本の原因は、自ら手掛ける理想郷の建設事業のために邪魔となっていた菩提樹の下の小屋に住む老夫婦を立ち退かせるようにメフィストフェレスに命じていた自分自身にあると知らされることになります。
ファウストは、自らの新たな世界の創造への意志が、結果としてこの地に生きてきた人々を苦しめ、死へと追いやることへとつながってしまったことに対して思い悩み、悲嘆にくれることになるのですが、
このようにして独り煩悶するファウストのもとへ、四つの災厄を代表する四人の灰色の女たちが忍び寄ってきて、
何とか彼の屋敷の中へと入り込み、彼の心を自分たちが司る暗闇の感情によって支配する手立てはないかと画策しだすことになります。
『ファウスト』における四人の灰色の女たちの登場場面のドイツ語原文
リュンコイスの詩が歌われる「深夜」の章に続く『ファウスト』第二部第五幕の「真夜中(Mitternacht、ミッターナハトゥ)」の章では、
理想郷の建設を成し遂げようとしていた自らの意志が、結果として善良な老夫婦の命を奪うことへとつながってしまったことを嘆くファウストのもとへ、
「欠乏」、「罪責」、「困窮」そして「憂い」という四つの災厄の名を持つ四人の灰色の女たちが忍び寄ってくる場面が描かれるていくことになります。
ファウストのもとへと忍び寄る四人の灰色の女たちが登場する場面は、ドイツ語の原文では以下のように記されています。
・・・
Mitternacht
Vier Graue Weiber treten auf.
Erste:
Ich heiße der Mangel.
Zweite:
Ich heiße die Schuld.
Dritte:
Ich heiße die Sorge.
Vierte:
Ich heiße die Not.
Zu drei:
Die Tür ist verschlossen, wir können nicht ein、
Drin wohnet ein Reicher wir mögen nicht ‘nein.
Mangel:
Da werd ich zum Schatten.
Schuld:
Da werd ich zunicht.
Not:
Man wendet von mir das verwöhnte Gesicht.
Sorge:
Ihr Schwestern, ihr könnt nicht und dürft nicht hinein.
Die Sorge, sie schleicht sich durchs Schlüsselloch ein.
(Sorge verschwindet.)
Mangel:
Ihr, graue Geschwister, entfernt euch von hier.
Schuld:
Ganz nah an der Seite verbind ich mich dir.
Not:
Ganz nah an der Ferse begleitet die Not.
Zu drei:
Es ziehen die Wolken, es schwinden die Sterne!
Dahinten, dahinten! von ferne, von ferne,
Da kommt er, der Bruder, da kommt er, der – – – Tod.
四人の灰色の女たちの登場場面のドイツ語文と日本語文の対訳
そして、次に、上記のドイツ語原文を、発音とアクセントの目安を併記したうえで、ドイツ語原文と日本語との対訳形式で一行ずつ訳していくと以下のようになります。
※ただし、ドイツ語文で強調して読まれるアクセントの目安については、ドイツ語文の下に記した発音を示すカタカナ表記を太字で記すことによって示すこととし、
日本語の訳文を書いた後の※印の部分でところどころ簡単な文法上の注釈を付記している箇所があります。
また、ドイツ語文と日本語文との対訳関係がより分かりやすくなるように、日本語文の訳文において重要な意味を担う箇所を太字で記したうえで、それに対応するドイツ語文の箇所も太字にする形で記しています。
・・・
Mitternacht(ミッターナハトゥ、真夜中)
Vier Graue Weiber treten auf.
(フィーア・グラオエ・ヴァイバー・トレーテン・アオフ)
四人の灰色の女たちが現れる。
※auftreten:登場する、現れる
Erste(エアステ、第一の女):
Ich heiße der Mangel.
(イヒ・ハイセ・デア・マンゲル)
私の名は欠乏。
Zweite(ツヴァイテ、第二の女):
Ich heiße die Schuld.
(イヒ・ハイセ・ディー・シュルトゥ)
私の名は罪責。
Dritte(ドリッテ、第三の女):
Ich heiße die Sorge.
(イヒ・ハイセ・ディー・ゾルゲ)
私の名は憂い。
Vierte(フィルテ、第四の女):
Ich heiße die Not.
(イヒ・ハイセ・ディー・ノートゥ)
私の名は困窮。
Zu drei(ツー・ドライ、三人の灰色の女たち):
※この三人は、Sorge(憂い)を除く、Mangel(欠如)とSchuld(罪責)とNot(困窮)の名を持つ残り三人の灰色の女たちのことを示す。
Die Tür ist verschlossen, wir können nicht ein、
(ディー・テューア・イストゥ・フェアシュロッセン・ヴィア・ケネン・ニヒトゥ・アイン)
扉には鍵がかかっていて、中に入ることができない。
Drin wohnet ein Reicher wir mögen nicht ‘nein.
(ドリン・ヴォーネトゥ・アイン・ライヒャー・ヴィア・メーゲン・ニヒトゥ・ナイン)
富貴の人が住んでいるお屋敷には、あまり入りたいとも思わない。
※‘nein=hinein(ヒナイン、中へ)の省略形。
Mangel(マンゲル、欠乏):
Da werd ich zum Schatten.
(ダー・ヴェーアトゥ・イヒ・ツム・シャッテン)
そこに入れば私はただの影になってしまう。
Schuld(シュルトゥ、罪責):
Da werd ich zunicht.
(ダー・ヴェーアトゥ・イヒ・ツーニヒトゥ)
そこに入れば私はたちまち消えてしまう。
※zunichte werden:打ち砕かれる、水泡に帰する。
Not(ノートゥ、困窮):
Man wendet von mir das verwöhnte Gesicht.
(マン・ヴェンデットゥ・フォン・ミア・ダス・フェアヴェーンテ・ゲズィヒトゥ)
贅沢に慣れた人は私の方には見向きもしない。
※[4格]+[方向]+wenden:顔や視線などを向き変える
Sorge(ゾルゲ、憂い):
Ihr Schwestern, ihr könnt nicht und dürft nicht hinein.
(イーア・シュヴェスターン・イア・ケントゥ・ニヒトゥ・ウントゥ・デュルフトゥ・ニヒトゥ・ヒナイン)
あなた方、私の姉妹たち、あなたちはそこに入ることができないし、中へと入ることを許されてもいない。
Die Sorge, sie schleicht sich durchs Schlüsselloch ein.
(ディー・ゾルゲ・ズィー・シュライヒトゥ・ズィヒ・ドゥルヒス・シュリュッセルロホ・アイン)
ただ憂いのみが、鍵穴を通り抜け、中へとこっそり忍び入ることができるのだ。
※schleicht sich:こっそり歩く、忍び出る
※durchs はduruch dasの短縮形。
(Sorge verschwindet.)
(ゾルゲ・フェアシュヴィンデットゥ)
(憂いはその場から姿を消す。)
Mangel(マンゲル、欠乏):
Ihr, graue Geschwister, entfernt euch von hier.
(イーア・グラオエ・シュヴェスター・エントフェルネットゥ・オイヒ・フォン・ヒーア)
あなた方、灰色の姉妹たち、早くここから立ち去りましょう。
Schuld(シュルトゥ、罪責):
Ganz nah an der Seite verbind ich mich dir.
(ガンツ・ナー・アン・デア・ザイテ・フェアビントゥ・イヒ・ミヒ・ディーア)
私はあなたのすぐそばに離れずついて行きましょう。
Not(ノートゥ、困窮):
Ganz nah an der Ferse begleitet die Not.
(ガンツ・ナー・アン・デア・フェルゼ・ベグライテン・ディー・ノートゥ)
困窮はあなたのかかとにくっついて行きましょう。
Zu drei(ツー・ドライ、三人の灰色の女たち):
Es ziehen die Wolken, es schwinden die Sterne!
(エス・ツィーエン・ディー・ヴォルケン・エス・シュヴィンデン・ディー・シュテルネ)
雲はゆっくりと流れていき、星の光はしだいに消えていく。
Dahinten, dahinten! von ferne, von ferne,
(ダーヒンター・ダヒンター・フォン・フェルネ・フォン・フェルネ)
その後ろから何かやってくるものがある。遠くはるか彼方から。
Da kommt er, der Bruder, da kommt er, der – – – Tod.
(ダー・コムトゥ・エア・デア・ブルーダー・ダー・コムトゥ・エア・デア・トートゥ)
あの人がやってくる、私たちの兄弟が。
ついにあの人がやってくるのだ。死という名のあの人が。
『ファウスト』における四人の灰色の女たちの登場場面の全文和訳
そして最後に、上記のドイツ語文と日本語文の対訳の中から、和訳の部分だけを抜き出して、改めて該当箇所の全文和訳を記す形でまとめ直すと以下のようになります。
・・・
「真夜中」
(四人の灰色の女たちが現れる。)
第一の女:
私の名は欠乏。
第二の女:
私の名は罪責。
第三の女:
私の名は憂い。
第四の女:
私の名は困窮。
(憂いを除く)三人の灰色の女たち:
扉には鍵がかかっていて、中に入ることができない。
富貴の人が住んでいるお屋敷には、あまり入りたいとも思わない。
欠乏:
そこに入れば私はただの影になってしまう。
罪責:
そこに入れば私はたちまち消えてしまう。
困窮:
贅沢に慣れた人は私の方には見向きもしない。
憂い:
あなた方、私の姉妹たち、あなたちはそこに入ることができないし、中へと入ることを許されてもいない。
ただ憂いのみが、鍵穴を通り抜け、中へとこっそり忍び入ることができるのだ。
(憂いはその場から姿を消す。)
欠乏:
あなた方、灰色の姉妹たち、早くここから立ち去りましょう。
罪責:
私はあなたのすぐそばに離れずついて行きましょう。
困窮:
困窮はあなたのかかとにくっついて行きましょう。
三人の灰色の女たち:
雲はゆっくりと流れていき、星の光はしだいに消えていく。
その後ろから何かやってくるものがある。遠くはるか彼方から。
あの人がやってくる、私たちの兄弟が。
ついにあの人がやってくるのだ。死という名のあの人が。
・・・
以上のように、
ファウストのもとを訪れた四つの災厄の名を持つ四人の灰色の女のうち、
最初と最後の災厄である「欠乏」と「困窮」は、自らに備わった知力と、悪魔メフィストフェレスとの契約によって得た莫大な富と権力を手にするファウストにとっては、およそ無縁の苦悩であり、
自らの理想を実現させるためにはどのような労苦も厭わない力強く建設的な意志をもった存在であるファウストにとっては、「罪責」がもたらす罪の意識と後悔の念ですら、彼の精神を弱めるには至らずに、乗り越えられてしまうことになります。
そのような絶大な意志の力を持つファウストにとって、唯一その心の内に入り込む余地があったのは、「憂い」がもたらす苦悩だけであり、
善いことも悪いことも押しなべて、そのすべてを退屈で無価値なものへと引きさらってしまう憂鬱な感情である「憂い」だけがファウストの心の隙間へと入り込み、その精神を脅かしうる存在として彼のもとにその姿を現すことになります。
そして、物語は、
三人の灰色の女たちが告げる不吉な死の予兆を聞きながら、
鍵穴から屋敷の中へとこっそり入り込み、ファウストのもとへと静かに忍び寄ってきたもう一人の灰色の女である「憂い」とファウストとの対決の場面へと移り変わっていくことになるのです。
・・・
次回記事:「憂い」がファウストの耳元でささやく呪いの歌、『ファウスト』の和訳と解釈⑪
前回記事:リュンコイスの詩の後半部分で歌われる見えることの災いと苦しみ、リュンコイスの詩②、『ファウスト』の和訳と解釈⑨
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