エトルリアの重装歩兵とピルムの開発とローマへの軍事的基盤の継承、ローマ人とエトルリア人の関係⑥
前回までの記事で考えてきたように、
王政期の古代ローマは、
土木建築におけるアーチ構造の技術や、コロセウムにおける剣闘士の競技
といった技術や競技文化から、
さらには神話や鳥占いといった精神文化に至るまで、
ローマの北西に位置していた古代エトルリアから
様々な技術的・文化的要素を受け継ぐことによって
文化的にも経済的にも
大きな発展を遂げていくことになったのですが、
こうした文明を構成する諸要素の継承は、
軍事面での軍制や戦術の継承にまでおよぶようになっていきます。
エトルリアにおけるギリシア式の軍制の改良とピルムの開発
エトルリア人は軍事面において、基本的には
東地中海を介した海上貿易でつながりの深かった
ギリシア式の軍制を採用し、
青銅製の兜と脛当て(すねあて)、籠手(こて)によって防備を固め、
運動性を高めるために革製の胸当てを鎧として装備し、
左手には大型の丸盾を、右手には片手刀か手槍を持って戦う
重装歩兵を中核とする軍隊編成を行っていました。
そして、さらに、
エトルリア人は、アルプス山脈の北方から攻めてくる
勇猛なガリア人との抗争を繰り広げることによって、
歩兵軍団の側面の防御と共に、敵軍の偵察や追撃を担う軽装騎兵や
弓矢や石、槍などの投擲を行う軽装歩兵などの
機動力のある部隊も多く取り入れた
軍編成をおこなうようになっていきます。
大柄で屈強な身体を持つガリア人の戦士たちは、
長大な剣と身体全体を覆う大盾を自在に操って戦っていましたが、
これに対抗して、エトルリア人は、
ピルム(pilum)と呼ばれる重く長大な鉄製の投げ槍を開発します。
ピルムの重さは重いもので4キログラム、
長さは長いものでは人間の身長を越える2メートルにもおよんだ
と言われますが、
こうした長大な重量級の槍が
ちょうどオリンピックのやり投げの選手の投擲のように
兵士の手から勢いよく放たれ、
放物線を描いて加速しながら落下して突き刺さることによって、
敵兵を盾ごと貫き、その防御力を無効化することが可能となりました。
そして、
エトルリア人は、こうしたピルムを重い重量にも耐えられる
重装歩兵に装備させ、
開戦時に敵軍の前衛部隊に投げつけ、大盾による防御力の削減を図ることによって
ガリア人との戦闘をより有利に進めることができるようになっていったのです。
以上のように、
エトルリア人は、ギリシアから取り入れた重装歩兵を軍制のベースとして、
そこに、ガリア人といった性質の異なる敵軍との戦闘を重ねる中で、
改良を加えていくことによって、
軍隊編成においても戦術面においてもより広がりのある
汎用性の高い実戦的な軍隊を作り上げていったと考えられるのです。
王政ローマにおけるエトルリア式の軍制の整備
そして、
エトルリアの強い影響下にあった王政ローマにおいても
エトルリア人を介してギリシア式の軍制が継承されていき、
特に、王政期後半の古代ローマでは、
エトルリア人王による治世の下、
ギリシア式の重装歩兵団を中心とする
エトルリア式の軍隊編成が進んでいくことになります。
ローマでは、軍隊は、
都市国家ローマに居住する自由民、すなわち、
ローマ市民から構成され、
こうしたローマ市民軍が、軍編成の内部では、
それぞれが自弁(自分で費用を負担)できる装備や戦闘経験に応じて
五つの階級に区分されていました。
そして、さらに、
それぞれの軍階級を構成する兵士たちが100人ごとに
ケントゥリア(centuria、百人隊)と呼ばれる軍団を構成し、
彼らがケントゥリアを率いる指揮官である
百人隊長(ケントゥリオ、centurio)のもとで結束することによって、
士気と統率を保って戦闘をおこなうことが可能となっていったのです。
・・・
以上のように、
エトルリアから軍事的基盤を継承した
王政期の古代ローマの軍人たちは、
エトルリア人王の支配下にありながらも
ローマ市民として団結し、祖国を守るために
誇りをもってて軍務に努めていたのですが、
王政ローマにおいて、エトルリア人王による専制支配の傾向が強まり、
独裁と恐怖政治が進展していく中で、
ローマという国家が実質的には、
エトルリアの属国に等しい状態へと陥っていくようになると、
ローマ市民軍は、都市国家ローマの自立
のために立ち上がることになります。
そして、彼らは、
ついには、自らの手でエトルリア人王政を打破することに
成功することになるのですが、
そもそも、
エトルリアから多くの技術や文化を取り入れたとはいえ、いまだ、
その支配領域の広さや人口、国力において大きく劣り、
軍事面においても、
エトルリア人の軍制を真似て作られたはずのローマ軍が
その軍隊の量としても軍制の質においてもローマを大きく上回る
エトルリア人と戦い、これを打ち負かすことができたのは
いったいどうしてなのでしょうか?
そこには、
都市国家ローマの側には強く存在し、
エトルリア人の諸都市の間にはあまり存在しなかった
精神的とも言ってもいいある要素が介在することになります。
・・・
このシリーズの前回記事:エトルリアとロムルスとレムスの鳥占いと卜占官、ローマ人とエトルリア人の関係⑤
このシリーズの次回記事:エトルリアからのローマの自立と民族と国家への帰属意識の差、ローマ人とエトルリア人の関係⑦
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