テーセウスの船の哲学的な解釈②部分と全体そして同一性の差異という観点に基づくテーセウスの船の解釈

前回の記事で書いたように、

「ある船を構成しているすべての部品新しい部品へと交換されてしまった後でも、その船は元の船と同じ船であると言えるか?

という命題に集約されることになるテーセウスの船と呼ばれる哲学的な議論は、アリストテレス哲学における四原因説と呼ばれる説明方式に基づいて解釈していくと、

事物の素材のことを意味する質料因の観点からは、この船は元の船とはまったく異なる部品で構成されているという意味で、元の船とは異なる船であると考えられるのに対して、

事物の構造と本質のことを指し示す形相因の観点からは、この船は元の船とまったく同じ構造と本質を保ち続けているという点において、元の船と同じ船であるとして捉えることができると考えられることになります。

そして、それに対して、

こうしたテーセウスの船と呼ばれる哲学的な問題について、より一般的な概念へと置き換えていく形で説明していこうとする場合、それは、

一つの事物における部分と全体という観点からも説明していくことができると考えられることになります。

スポンサーリンク

部分と全体という二つの観点に基づくテーセウスの船の解釈

そうすると、まず、

こうしたテーセウスの船と呼ばれる哲学的な問題に対するアリストテレスの四原因説に基づく解釈のあり方のなかでも、

特に、上述した質料因と形相因と呼ばれる二つの原因概念に基づく解釈のあり方を、部分と全体という、より一般的な概念へと結びつけて考えていく場合、

前者の質料因の観点に基づく解釈は、船を構成している個々の部分の問題、

後者の形相因の観点に基づく解釈は、船を形づくる全体の構造の問題へと結びつけていく形で捉え直していくことができると考えられることになります。

つまり、

こうしたテーセウスの船の問題において挙げられているすべての部品新しい部品へと交換されてしまった船というのは、

船を構成している個々の部品や素材を問題とする部分的な観点においては、元の船と異なる船として捉えられるのに対して、

船全体の構造を問題とする全体的な観点においては、元の船と同じ船として捉えることができると考えられることになるのです。

スポンサーリンク

同一性の差異という観点に基づくテーセウスの船の解釈

そして、

こうした一つの事物における部分と全体という観点からテーセウスの船の問題を解釈し直していく場合、

その船が元の船と同一の船であるのか?という問題については、

その船が部分と全体というそれぞれの観点における同一性の基準どのくらい満たすのか?という程度の違いに応じて、

その船と元の船との同一性の度合い差異が生じていくことになると考えられることになります。

例えば、

元の船に修理が施されることによって、部品が半分だけ新しいものに入れ替わってしまった船というのは、部分的な観点において元の船と半分だけ同じ船ということになりますし、

元の船が岩などにぶつかって半分だけ壊れてしまった船というのは、全体的な観点において元の船と半分だけ同じ船として捉えることができると考えられることになります。

それでは、

いったいどのくらいの割合同一性の基準を満たしていれば、その船はそれぞれの観点において同一の船と見なすことできるのか?ということについてですが、

それについては、例えば、

金の指輪といった事物を例に挙げて考えていくとした場合、

その指輪に含まれている金の割合が100であれば、その指輪は誰にも文句をつけられることがない純金の指輪という意味で金の指輪としての同一性を完全に満たすことになりますし、

おそらく、その指輪に少なくても半分以上の割合で金が含まれているとするならば、その指輪は大部分が金でできた指輪という意味で、金の指輪として一般的に通用することになると考えられることになります。

そして、極端に言えば、

その指輪にたった1%でも金が含まれているとするならば、それは金が含まれている指輪であるという意味で、その指輪のことを金の指輪と主張することも完全な誤りではないと考えられることになりますが、

それに対して、そうした部分的な観点において金がまったく含まれていない指輪のことを金の指輪と主張することは、明らかな詐欺行為であって完全な誤りであると考えられることになります。

・・・

以上のように、

こうしたテーセウスの船の問題に代表される事物の同一性の問題においては、その事物が部分と全体というそれぞれの観点における同一性の基準をどの程度満たしているかによって、同一性の度合い差異が生じていくことになると考えられ、

その事物が元の事物と完全に同一の事物であると言えるためには、こうした部分と全体という両方の観点において100%同一性を満たすことが必要であると考えられることになるのに対して、

一般的には、元の事物と半分以上の同一性を満たしていれば、その事物が元の事物と同じ事物として認められる場合が多いと考えられ、

こうした部分と全体どちらか一方の観点において、まったく同一性を満たしていない事物のことを、元の事物と同じ事物として認めることはできないと考えられることになります。

そして、このように、考えていくと、

こうしたテーセウスの船の問題に対する部分と全体そして同一性の差異という観点に基づく解答のあり方としては、

この問題において提示されているすべての部品新しい部品へと交換されてしまった船というのは、

船全体の構造を問題とする全体的な観点から100%の同一性を満たしているのに対して、船を構成している個々の部品や素材を問題とする部分的な観点においては同一性は0、つまり、まったく同一性を満たしていないということになるので、

この船は、アテナイの英雄テーセウスが乗っていた元の船とはまったく異なる船であり、それは言わば、本物のテーセウスの船のレプリカ、すなわち、単なる複製品に過ぎないと結論づけることができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:一つの船から二つの船ができる派生的なテーセウスの船の問題における二重の同一性の問題

前回記事:テーセウスの船の哲学的な解釈①アリストテレスの四原因説に基づく四つの観点から見た船の同一性の解釈

アリストテレスのカテゴリーへ

哲学の概念のカテゴリーへ

哲学の雑学のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ