アケメネス朝ペルシアの台頭とペルシア戦争の背景となったフェニキア人とギリシア人の王女たちの略奪をめぐる因縁の物語
前回までに書いてきたように、スパルタなどと並ぶ古代ギリシアを代表する都市国家にあたるアテナイにおいては、
紀元前561年にはじまるペイシストラトスの僭主政の時代における中小農民の台頭と、紀元前508年に行われたクレイステネス改革における大規模な制度改革を通じて、
国力の増大が進んでいくと同時に、民主政の基盤となる政治体制のあり方が形づくられていくことになっていったと考えられることになります。
そして、こうした古代ギリシア世界におけるアテナイの台頭と時を同じくして、東方に位置するメソポタミアやエジプトを中心とするオリエント世界においては、アケメネス朝ペルシアと呼ばれるペルシア帝国が台頭していくことになります。
アケメネス朝ペルシアの台頭とフェニキア人との関係
アケメネス朝ペルシアは、紀元前550年ごろの時代に、現在のイランに位置する古代王国であったメディア王国に属する小王国の王であったキュロス2世がそれまで仕えていたメディア王国に反旗を翻すことによって独立した国にあたり、
その後、キュロス2世は、かつて自らが仕えていたメディア王国を滅ぼしてイラン高原を平定したのち、現在のトルコに位置するリュディア王国や新バビロニア王国といった国々を次々に征服していくことによって、広大な領土を持つ帝国を築き上げていくことになります。
そして、
こうしたキュロス2世の進軍によるペルシア帝国の領土拡大の際に、
現在のレバノンやパレスチナ地方の沿岸部を中心に都市国家を築いていた古代地中海世界における海洋貿易民族であったフェニキア人たちもその多くがアケメネス朝ペルシアの支配のもとへと服していくことになっていったと考えられることになるのです。
ダレイオス1世によるオリエント統一とイオニア地方のギリシア人都市国家の支配
そして、その後、
キュロスの息子であったカンビュセス2世の時代になると、ペルシア人たちはついにエジプトをも征服することによって、ペルシア帝国による古代オリエント世界の統一が成し遂げられることになります。
そして、
その次のダレイオス1世の時代になると、全領土を二十の属州へと区分してサトラップと呼ばれる太守を置くことによって分割統治するといった巧みな支配を進めていくことによって、アケメネス朝ペルシアは黄金時代を迎えていくことになり、
アナトリア地方南西部の沿岸地域にあたるイオニア地方に位置するギリシア人都市国家もその多くがアケメネス朝ペルシアの支配下へと組み込まれていくことになります。
そして、その際、
ダレイオス1世は、ペルシア帝国の支配下に入ったギリシア人都市国家に対しても、他の地域と同様に、自分の命令に従う僭主を支配者として送り込んで兵役や納税の義務を負わせることによってギリシア人たちの自由を奪っていくと同時に、
経済活動の主体となっていた地中海における貿易活動においても、ギリシア人たちよりも早くペルシア帝国の傘下へと入っていたフェニキア人に対する保護政策をとっていくことになったため、
こうした経緯から、
イオニア地方のギリシア人都市国家におけるペルシア帝国に対する不満が高まっていくことによって、その後のイオニアの反乱やそれに続くペルシア戦争と呼ばれる東西の世界の覇権をめぐる大戦争が引き起こされていく火種が生まれることになったと考えられることになるのです。
フェニキア人とギリシア人の王女たちの略奪をめぐる因縁の物語
ちなみに、
こうしたペルシアとの関係をめぐるギリシア人とフェニキア人との因縁については、古代ギリシアの歴史家であったヘロドトスが記した『歴史』の冒頭部分において王女たちの略奪をめぐる神話的な物語が語り伝えられていて、その話のなかでは、
そもそもこの因縁の物語の発端は、
トロイア戦争などの話が語られるギリシア神話の時代に、ギリシアの古代都市であったアルゴスを訪れていたフェニキア人の商人たちが、
海外から渡来した珍しい品々を見るために船のもとへとやってきたイオという名の王女を彼女の付き添いであった婦人たちと共に捕らえて、彼女たちのことをそのまま船へと乗せてエジプトへと連れ去ってしまったことにあるとされています。
そして、その後、
このことを恨みに思っていたギリシア人たちの一行が、遠征の船旅へと赴いた際に、フェニキアの古代都市であったテュロスへと立ち寄って、
かつてフェニキア人たちが自分たちの国の王女イオを異国の地へと連れ去ってしまったことの報復として、フェニキアの王女エウロパをギリシアへと連れ去っていってしまうことになります。
もっとも、
正式なギリシア神話の物語のなかでは、王女エウロパは、白い牡牛へと姿を変えたゼウスによって、海を越えてギリシアのクレタ島へと連れて行かれたとされているのですが、それはともかくとして、
こうしてフェニキア人たちがかつて行ったギリシアの王女イオの略奪に対する報復としてフェニキアの王女エウロパを略奪したギリシア人たちの一行は、
その後さらに、エーゲ海を北上してダーダネルス海峡を越えて黒海の沿岸地域にまで遠征を続けていくことになり、この地で、
ペルシアの前身にもあたるメディア王国の名前の由来ともなったと伝えられているコルキスの王女メディアを略奪してギリシアの地へと連れ去ってしまうことになったため、
その後、このことを恨みに思っていたペルシア人たちが王女メディアの略奪の責めをギリシア人たちに負わせる機会をうかがっていくなかで、ペルシア帝国によるギリシア世界への侵略が引き起こされることになったと語られていくことになります。
そしてこのように、ヘロドトスによって伝えられている以上のような話のなかでは、
こうしたギリシアの王女イオと、フェニキアの王女エウロパ、そしてコルキスの王女メディアという三人の王女の略奪をめぐる神話的な物語を通じて、
ギリシア人とフェニキア人そしてペルシア人という三つの民族をめぐるペルシア戦争へとつながっていく背景となる因縁となる関係が示されていると考えられることになるのです。
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次回記事:ミレトスの僭主アリスタゴラスの援軍要請へのアテナイとスパルタの対応の違いとその背景にあるイオニアとアテナイの関係
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