TANTANの雑学と哲学の小部屋 https://information-station.xyz このサイトは、日常生活の知識や雑学からはじまり、哲学や人生の深淵に至るまで、さまざまな分野の知識や情報を独自の視点で総合的・有機的に結びつけることを目的としています Sat, 30 Dec 2023 01:01:19 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.4.32 デモステネスの三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死そしてアテナイ人から死後に与えられたプリタネイオンの栄誉 https://information-station.xyz/20508.html Mon, 13 Jul 2020 21:00:19 +0000 https://information-station.xyz/?p=20508 前回書いたように、フィリッポス2率いるマケドニアの台頭とギリシア世界への影響力の拡大が進んで行くなか、アテナイでは、イソクラテスを中心とする親マケドニア派とデモステネスを中心とする反マケドニア派の対立を経たのち、

最終的に、デモステネスの演説に心を動かされてマケドニア軍に対抗することを決意したアテナイの人々は、新たな同盟者となったテーバイの人々と共に、両軍の決戦の地であるカイロネイアへと赴いていくことになります。

そして、こうしてアテナイからギリシア諸国全体へとおよぶ反マケドニア運動の主導者となったデモステネスは、その後もギリシアの自由と独立を守ろうとする反マケドニア闘争へと自らの人生のすべてを捧げていくことになるのです。

若き日のデモステネスの言論の力によるアテナイの法廷での勝利

デモステネスは、紀元前384年にアテナイ刀剣をつくる工場を持っていた比較的裕福な工業家のもとに生まれることになるのですが、

その後、彼が7歳の時に父が急死すると、後見人となった人々が亡き父が残した財産を着服して使い込んでしまうことによって、デモステネスは後に残された妹たち共に生活にも困窮していくことになります。

そして、こうした窮地から家族を救うために、若きデモステネスは、当時のアテナイにおいて雄弁家として知られていたイサイオスのもとで学んで弁論術を身につけることによって、法廷の場において悪徳の後見人たちを訴えて勝利を得ることになります。

そしてその後、デモステネスは、必要に迫られて見いだすことになった自らの弁論の才能を生かして、法廷での弁論のための演説文をつくる法廷弁論代作家として名を上げていくことになるのですが、

その後、フィリッポス2世の率いるマケドニアの大軍がアテナイへと迫りくるなか、人間が持つ言論の力とアテナイにおける自由と民主主義の精神を深く信じるデモステネスは、

自らが持つ弁論の力を頼りに心の底から沸き起こる熱情のままに『フィリッピカ』と呼ばれる後世において古代ギリシア文学を代表する名文の一つとして伝わる反フィリッポス演説を行うことによって、

アテナイの人々、さらには、そのもとにつき従うギリシア諸国の人々を反マケドニア闘争へと結集させてマケドニアとの決戦であるカイロネイアの戦いへと導いていくことになるのです。

カイロネイアの戦いにおけるギリシア連合軍の大敗とデモステネスの弁明

こうして紀元前338年の8月に行われることになったカイロネイアの戦いにおいては、デモステネスの主導のもと、アテナイとテーバイを中心とするギリシア連合軍の陣営には数においてはマケドニア軍を上回る3万5000もの軍勢が集まることになるのですが、

重装歩兵の戦術に長けた天才的な軍略家であったフィリッポス2と、のちに父フィリッポスをも大きく超える偉大な戦績を残すことになる若き日のアレクサンドロスが率いるマケドニアの精鋭軍の前にギリシア連合軍は大敗を帰することになります。

そしてその後、アテナイを含むギリシア諸国はフィリッポス2世を盟主とするコリントス同盟のもとへと組み込まれていくことによってマケドニアの支配下へと入ることになり、

カイロネイアの戦いでの敗戦の責任を問われることになったデモステネスは、アテナイの法廷の場へと引きずり出されることになるのですが、

デモステネスは、自らの主戦場である弁論の舞台において再び名演説を行うことによってアテナイの人々を言論の力によって説き伏せることになり、ギリシア世界における最高の弁論家としての名声を勝ち取ることになるのです。

デモステネスによる三度にわたる反マケドニア闘争の失敗と非業の死

そしてその後、カイロネイアの戦いにおけるアテナイの敗戦とコリントス同盟の締結からほどなくして、紀元前336年にピリッポス2マケドニアの王宮において暗殺されることになると、これを反撃の好機と捉えたデモステネスは、再び反マケドニア闘争ギリシア諸国へと呼びかけていくことになるのですが、

すでにマケドニアの支配のもとに服していたギリシア諸国は、もはやデモステネスの言葉に耳を傾けることはなく、民衆の支持を失うことになったデモステネスは母国であるアテナイからの亡命を余儀なくされることになります。

そして、さらにその後、フィリッポス2世の後を継いだアレクサンドロス大王がギリシアからエジプトそしてメソポタミアからインド西部にまで至る大帝国の建設へと至る東方遠征の途上にあった紀元前323年に熱病で急死してしまうことになると、

こうした情勢の変化に呼応して、デモステネス三度目の大規模な反マケドニア闘争へと向けて立ち上がることになります。

こうして紀元前323にはじまることになったアテナイを中心とするギリシア諸国マケドニアからの独立を目指して行われることになったラミア戦争と呼ばれる一連の戦いにおいては、

当初はギリシア軍の側が優勢を築くことによって、一時はマケドニア軍を北方へと押し戻すことになるのですが、その後、東方遠征が行われていたアジアから帰還しマケドニアの援軍が到着すると、マケドニアの大軍の前にギリシア諸国の反乱は鎮圧されてしまうことになります。

そして、マケドニア軍がデモステネスを処刑するために放った追っ手が迫るなか、ペロポネソス半島の東岸に面したカラウレイア島のギリシア神話の海の神ポセイドンへと捧げられた聖域にまで逃げのびてきたデモステネスは、

この地で、彼のもとに現れたマケドニア軍の兵士の前で毒を口に含んだのち、祭壇の前まで歩みを進めてから倒れ、この地で命を落とすことになったと語り伝えられています。

こうしてデモステネスは、三度にわたる反マケドニア闘争の失敗ののち、異国の地において非業の死を遂げることになったのですが、

その後、アテナイへの深い愛国の精神のもとギリシアの自由と独立を守ろうとする戦いに自らの身を捧げていくことになったデモステネスの言葉がいつまでも心の内に残されていくことになったアテナイの人々は、

その高潔なる精神に深い哀悼の意を示して彼のことを讃える像を建てたうえで、彼の子孫たちに国家のために尽くした英雄と功労者のみに与えられるプリタネイオンでの饗宴の栄誉を与えることによって、その魂を弔うことになったと伝えられているのです。

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親マケドニアのイソクラテスと反マケドニアのデモステネスの対立とアテナイ市民の選択:『フィリッポス』と『フィリッピカ』 https://information-station.xyz/20504.html Sun, 12 Jul 2020 13:51:47 +0000 https://information-station.xyz/?p=20504 前回までに書いてきたように、マケドニア国内における軍制改革と中央集権化を成し遂げたのち、ギリシア世界の覇権を握ることを目指すことになったマケドニアの王フィリッポス2は、

紀元前356年にはじまる第三次神聖戦争と紀元前339年の第四次神聖戦争というギリシア世界における二度にわたる宗教戦争に介入することによって、ギリシア本土へと軍を進めていくことになります。

そして、フィリッポス2世率いるマケドニア軍がデルポイの位置するポーキス地方を通ってギリシア中部にあたるボイオティア地方へと進み、大規模な軍勢がアテナイの位置するアッティカ地方へもいよいよ迫ろうとするなか、

アテナイ本国では親マケドニア派反マケドニア派とに国民が真っ二つに分かれる激しい論争が繰り広げられていくことになります。

親マケドニアのイソクラテスの『フィリッポス』の公開書簡におけるアテナイの老賢者の言葉

マケドニアの台頭とギリシア世界への影響力の拡大に対して、その力に無理して抗わずにマケドニアの指導のもとにギリシア諸国が同盟を結ぶことによって和平をもたらそうとする親マケドニアの立場をとった代表的な人物としては、

アテナイ出身の古代ギリシアの修辞学者にしてソフィストとしても知られているイソクラテスの名が挙げられることになります。

金銭を対価として市民に弁論術や教養を授ける古代ギリシアの職業教師であったソフィストは、しばしば弁論の力によって真実をもねじ曲げる詭弁を用いることによって悪名を着せされることも多かったのですが、

そうしたソフィスト批判によっても有名な古代ギリシアの代表的な哲学者であるプラトンの著作のなかでも、イソクラテスについては、ソクラテスの口を借りて彼のことを讃えさせる場面が出てくるように、

イソクラテスは修辞学や弁論術に長けたソフィストとして位置づけられているとはいっても、それと同時に、哲学や政治学などの様々な分野について深い見識と教養を備えたアテナイ市民からも広く尊敬を集めていた聡明なる老賢者であったと考えられることになります。

そして、すでに紀元前380年に発表した『オリンピア大祭演説』において、ギリシア諸国が無益な抗争をやめて、互いに和解して一致団結することによって、ギリシアにとっての最大の敵である東方のペルシア帝国の征討へと向かう道を説いていたイソクラテスは、

こうしたフィリッポス2世率いるマケドニアの台頭をギリシア諸国が団結と統合へと向かう好機と捉えて、

紀元前346年に発表した『フィリッポス』と題されたマケドニアのフィリッポス2世へと宛てられた公開書簡において、

フィリッポス2世がギリシア諸国の盟主となることを要請し、ギリシア諸国の和解を成し遂げたうえで、ギリシア軍を率いてペルシア遠征へと乗り出すことを説くことになるのです。

反マケドニアのデモステネスによる『フィリッピカ』の演説とアテナイの人々の選択

そして、こうしたイソクラテスを中心とするアテナイにおける親マケドニア派の動きに対して、マケドニアの台頭とその強大な軍事力を背景としたギリシア世界への支配の拡大を自国への侵略行為と考える反マケドニアの立場をとった代表的な人物としては、

アテナイ出身の政治家にして優れた弁論家でもあったデモステネスの名が挙げられることになります。

北方でのマケドニアの台頭とフィリッポス2世率いるマケドニア軍のギリシア本土への進軍をギリシア諸都市の自由と独立が奪われかねない重大な脅威と捉えたデモステネスは、

紀元前351年『フィリッピカ』と題された反フィリッポスの演説を行うことによって、ギリシア諸国にマケドニアの侵略に対して一致団結して対抗し、ギリシア世界の防衛に尽くすことを訴えていくことになります。

そして、こうした後世に残る名文として知られる『フィリッピカ』におけるデモステネスの演説の言葉を聞いたアテナイの人々は、

その姿にかつてのアテナイの黄金時代における民主政の完成期を築いた偉大な指導者であるペリクレスの姿を見て、アテナイの自由と独立を守るためにマケドニアの脅威に対して毅然として立ち向かうことを決意したのか、

それとも、単に、ペロポネソス戦争におけるアテナイの敗戦と荒廃を招いたアルキビアデスクレオンといった煽動政治家たちにつき従っていた時と同じように、勇ましく好戦的な言葉に踊らされて、ただ感情的に戦いへと突き進んでいくことになったのかは定かではないものの、

マケドニアとの融和を唱える親マケドニア派のイソクラテスではなく、マケドニアに抵抗するデモステネスの言葉を聞き入れて、マケドニア軍との戦いへと乗り出していくことになります。

そしてその後、デモステネスの主導のもと反マケドニア闘争の先頭へと立つことになったアテナイの人々は、

紀元前339年にギリシア本土からは遠く離れた北東に位置する現在ではダーダネルス海峡と呼ばれているヘレスポントス海峡に面するギリシア植民市であったビザンティオンの攻防戦において正式にマケドニアに対して宣戦布告をしたのち、

それまで敵対関係にあったアテナイと並ぶギリシア本土の強国であったテーバイとの同盟を結んだうえで、

翌年の紀元前338にギリシア中部のボイオティア地方に位置するカイロネイアの地において、新たなる同盟者となったテーバイ軍と共に、

フィリッポス2とその息子であるアレクサンドロスが率いるマケドニアの大軍とギリシア諸都市の自由と独立をかけた最終決戦へと臨むことになるのです。

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第四次神聖戦争におけるデルポイへのロクリス人の侵入とカイロネイアの戦いへと至るフィリッポス2世のマケドニア軍の侵攻 https://information-station.xyz/20499.html Fri, 10 Jul 2020 03:33:15 +0000 https://information-station.xyz/?p=20499 これまでに書いてきたように、古代ギリシア世界における信仰の中心地にあたる宗教都市であったデルポイの地においては、近隣都市や周辺地域とのあいだで聖域の支配や宗教的な権威をめぐる抗争が起きることによって、

第一回そして第二回第三回へと続く神聖戦争と呼ばれるギリシア全土の都市国家へと波及していく大規模な宗教戦争が引き起こされていくことになります。

そして、第三回の神聖戦争が終結したあとのギリシア世界においては、すぐに再び都市国家間の緊張が高まっていくことによって、

古代ギリシア史において記録されている最後の神聖戦争である第四次神聖戦争が勃発することになるのです。

デルポイへのロクリス人の侵入と第四次神聖戦争の勃発

第四次神聖戦争でのデルポイへのロクリス人の侵攻とマケドニアの介入

第三次神聖戦争がマケドニアのフィリッポス2の軍勢の介入によって終結したのち、デルポイの周辺地域では、今度は、南方からのロクリス人の侵入によって新たな抗争の火種がもたらされることになります。

古代ギリシア世界においてロクリスと呼ばれる地域は、デルポイが位置するポーキス地方をはさんで北東に位置するロクリス・オプンティアと、南西に位置するロクリス・オゾリスに分立する形で存在していたのですが、

このうちの後者にあたるロクリス・オゾリスと呼ばれる地域に居住していたロクリス人たちがポーキスとの境界を越えてデルポイの南部地域への入植活動を進めていくことになります。

そして、このことがデルポイの聖域を侵略する神に対する冒瀆の罪として問題視されることによって、

第三次神聖戦争が終結してからわずか7年後にあたる紀元前339第四次神聖戦争と呼ばれるギリシア世界における新たな宗教戦争が勃発することになるのです。

フィリッポス2世率いるマケドニア軍の侵攻とテーバイ軍による妨害

そして、そうしたなか、ギリシア世界における自らの覇権を確立することを目指していたマケドニアのフィリッポス2は、こうした第四次神聖戦争におけるロクリスの討伐を口実としてデルポイが位置するギリシア中部への進軍を開始することになります。

そして、こうしたマケドニアの軍勢の進軍をギリシア世界への侵略行為みなしたギリシア中部のボイオティア地方における主要な都市国家であったテーバイは、

マケドニア軍の進軍ルート上に位置していたニカイヤの町を占領して軍を配備することによってギリシア世界へのマケドニアの侵攻を食い止めることを画策することになります。

それに対してその頃、フィリッポス2世率いるマケドニアの軍勢は、かつてペルシア戦争においてスパルタの300の重装歩兵たちが10万を超えるともいうペルシアの大軍の侵攻を阻んだことで有名なテルモピライの地に布陣していたのですが、

先の第三次神聖戦争における介入において、すでにギリシア本土の地理についての詳細な情報を得ていたマケドニア軍は、テーバイ軍との正面衝突を避ける迂回ルートをとることによって、大きな戦闘を行うこともないまま、そのまますんなりとギリシア中部への侵入を果たしてしまうことになるのです。

アテナイとテーバイの同盟:カイロネイアの戦いへの序章

こうしてマケドニアの軍勢がギリシア中部のボイオティアからアテナイが位置するアッティカ半島へと迫ろうとするなか、

マケドニアのフィリッポス2世によるギリシア世界への侵略からギリシアの都市国家の自治と自立を最後まで守り抜こうとする反マケドニア運動の主導者としての立場にあったアテナイのデモステネスの主導によって、

それまで敵対関係にあったアテナイとテーバイという当時の古代ギリシア世界における二大強国のあいだに軍事同盟が結ばれることになります。

そして、こうしたギリシア世界をめぐる急激な情勢の変化のなか、国王フィリッポス2世自ら率いるマケドニア軍とアテナイとテーバイを中心とするギリシア連合軍は、

両軍の最終決戦が行われることになるテーバイが位置するギリシア中部にあたるボイオティア地方のカイロネイアの地において対峙することになるのです。

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デルポイとポーキスの関係:現代のバチカンとイタリアの関係との類似点と古代ギリシアの他の地域との都市の関係の違い https://information-station.xyz/20494.html Tue, 07 Jul 2020 23:13:23 +0000 https://information-station.xyz/?p=20494 前回書いたように、古代ギリシアにおける第二次神聖戦争と呼ばれる宗教戦争においては、古代ギリシアにおける宗教的な中心地の一つであったデルポイのアポロン神殿をこの都市が位置するギリシア中西部の一帯を支配する一大勢力であったポーキス人と呼ばれる人々が占領することによって、

こうしたポーキスによるデルポイのアポロン神殿の占領神に対する冒瀆の罪とみなしたスパルタを中心とするデルフォイを守護する隣保同盟の諸都市の軍勢がポーキス討伐へと乗り出していくことにより戦争がはじまることになります。

それでは、そもそも、こうした古代ギリシアにおけるデルポイとポーキスとの関係はより具体的にはどのようなものであったと考えられることになるのでしょうか?

ギリシア神話におけるポーキスの由来と宗教都市デルポイの独自の発展

デルポイとポーキスとの位置関係

古代ギリシア語の発音ではポーキス、現代ギリシア語の発音ではフォキスと呼ばれるこの地方は、

東はテーバイを中心とするボイオティア地方、北西はスパルタなどの都市国家を建設したドーリア人の故地にあたるドーリス地方に隣接する古代ギリシアの一地方として位置づけられることになります。

そして、こうしたポーキスと呼ばれる古代ギリシアの地方は、ギリシア神話における海を司る神であるポセイドンの息子の一人であったポーコスがこの地へと移住したのちに土地が栄えていくことになったとされているため、その名をとってポーキスと呼ばれるようになったと伝えられています。

そしてその一方で、こうしたポーキスと呼ばれる地方に位置する主要都市の一つであったデルポイにおいては、ギリシア最古の神託所の一つでもあったアポロン神殿が築かれ、ギリシア全土の都市国家から広く信仰されていくことによって、

その他のポーキス地方における諸都市とは隔絶されたなかで、古代ギリシアにおける宗教都市としての独自の発展を遂げていくことになっていったと考えられるのです。

アッティカやラコニアなどの古代ギリシアの他の地域との都市の関係の違い

古代ギリシアにおける主要な地方とそれぞれの地方の中心都市との関係においては、アッティカにおけるアテナイ、ラコニアにおけるスパルタ、そして、ボイオティアにおけるテーバイというように、

通常の場合、それぞれの地方を代表する都市国家を中心として地域全体が発展していき、隣接する地方との抗争を繰り広げていくことによってギリシア世界における自らの勢力を拡大していくことになります。

しかし、それに対して、アポロン神殿の聖域を中心とする古代ギリシアにおける最大の宗教都市であったデルポイは、ポーキス地方の中心都市でありながら、その他のポーキス地方の諸都市からは隔絶した状態での独自の発展を遂げていくことになったため、

本来は、ポーキスの中心地でありながら、都市の支配をめぐってその他のポーキス地方の諸都市との間に時には対立関係が生じてしまうことによって、冒頭で述べたような神聖戦争と呼ばれる宗教戦争の勃発へとつながっていってしまうことになったと考えられるのです。

現代におけるバチカン市国とイタリアの関係との類似点

ちなみに、こうした一つの地域、あるいは、一つの国家の領域の内部に存在する周囲からは隔絶された状態で独自の発展を遂げていくことになった宗教都市の存在としては、

イタリアの首都であるローマ市内に存在する都市国家であるバチカン市国の存在なども挙げることができると考えられることになります。

キリスト教のカトリックの総本山となる宗教国家であるバチカン市国では、現代においても、都市国家の内部に居住する聖職者に対しては、

イタリア国籍などのそれぞれの居住者が持つ従来の国籍と同時にバチカン市国の国籍も付与されることによって二重の国籍が与えられることになるのですが、

そういった意味では、古代ギリシアにおけるデルポイポーキスとの関係においては、こうした現代におけるバチカンイタリアとの関係の内にも多少の類似点を見いだしていくことができるように、

宗教都市としてのデルポイは地理的および経済的な関係においては同じ国家の領域や地域の内に属していながら、政治的および宗教的な関係においては周囲の地域から隔絶された独自の発展を遂げていくことになっていったと考えられることになるのです。

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第二次神聖戦争におけるポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領とアテナイとスパルタの代理戦争としての位置づけ https://information-station.xyz/20487.html Sun, 05 Jul 2020 19:30:08 +0000 https://information-station.xyz/?p=20487 前々回書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域をデルポイに隣接する都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、

その後、シキュオンを盟主とするアポロン神殿を保護する隣保同盟の同盟軍の軍勢がキラの町を包囲したのち、水攻めとヘレボルスの毒を用いた計略を用いることによってキラの町が滅亡することにより終結を迎えることになります。

そしてその後、しばらくの間、デルポイの地には安寧が訪れることになるのですが、それから100年以上の時を経てギリシア全土を二分する大きな戦いであったペロポネソス戦争が起きることになると、

そうしたペロポネソス戦争の前後の時代に、再びデルポイの地を揺るがすアポロン神殿の聖域の支配をめぐる聖なる戦いが引き起こされることになるのです。

第二次神聖戦争とポーキス人によるデルポイのアポロン神殿の占領

第二次神聖戦争におけるポーキスのデルポイとドーリスへの侵攻

第一次神聖戦争が終結してデルポイに隣接する古代都市であったキラが滅亡すると、それからしばらくして、デルポイが位置するギリシア中西部にあたるフォキスあるいは古代ギリシア語の発音ではポーキスと呼ばれる地方においては地域の統一へと向けた機運が高まっていくことによってポーキス人と呼ばれる人々の勢力が強まっていくことになります。

そしてその後、北西に隣接するドーリスなどの地域への勢力の拡大を図っていったポーキス人たちは、そうした勢力拡大の一環として、ポーキス地方に属しながら、アポロン神殿を司る神聖な都市であったことから独立状態を保っていたデルポイを併合することを狙ってデルフォイのアポロン神殿を占領してしまうことになります。

そして、こうしたポーキスの軍勢によるアポロン神殿の占領を神に対する冒瀆の罪としてデルフォイを守護する隣保同盟の軍勢がポーキス討伐へと乗り出したことによって、

紀元前595年にはじまった第一次神聖戦争から150年ほどの時を経た紀元前449年に第二次神聖戦争が勃発することになるのです。

故郷の地ドーリスの防衛をめぐるスパルタとポーキスの争い

紀元前449にはじまった第二次神聖戦争においては、デルフォイのアポロン神殿の占領したポーキス人に対してスパルタを中心とする軍勢が討伐へと乗り出していくことになるのですが、

このようにスパルタが主導する形で第二次神聖戦争におけるポーキス討伐が行われることになった理由としては、その直前に行われていたポーキス人によるドーリス地方への侵攻が背景にあったと考えられることになります。

ドーリス地方はスパルタを建国したギリシア人の一派にあたるドーリア人あるいはドーリス人と呼ばれる人々の故郷の地であるとも考えられていたため、

スパルタの人々は聖なる都市であるデルポイの奪還と同時に、自らの故地であるドーリスの防衛も目的とすることによってこうした第二次神聖戦争におけるポーキス討伐へと乗り出していくことになったと考えられることになるのです。

アテナイとスパルタの代理戦争としての第二次神聖戦争

また、その一方で、こうした第二次神聖戦争が行われた当時のギリシアは、ギリシア全土を二分する大きな戦いであったペロポネソス戦争の前哨戦としても位置づけられる第一次ペロポネソス戦争のさなかにあり、

紀元前460年から紀元前445年までの15年間におよぶ第一次ペロポネソス戦争においては、その後のペロポネソス戦争と同様に、アテナイを中心とするデロス同盟の軍勢とスパルタを中心とするペロポネソス同盟の軍勢との間で激しい抗争が繰り広げられていくことになります。

そしてその後、こうした第一次ペロポネソスの一環として行われることになった古代ギリシアにおける第二次神聖戦争においては、

ポーキス討伐へと乗り出したスパルタによってデルポイが奪還されてポーキス人たちがこの地から放逐されることになると、スパルタ軍が撤収した後に、

今度は、スパルタに対立すると同時にポーキスと協力関係にあったアテナイの軍勢デルポイを再占領することによって、デルポイの地は再びポーキスの領内へと組み込まれることになります。

そしてその後、しばらくの間、デルポイの地はポーキス人の占領下に置かれることになるのですが、第二次神聖戦争から30年ほどの時を経た紀元前421年アテナイとスパルタとの間でペロポネソス戦争の休戦条約にあたるニキアスの和約が結ばれることになると、

こうしたニキアスの和約の締結の際に、デルポイの独立が認められることによって、デルポイは再びポーキスの支配から解放されることになります。

そして、そういった意味では、こうした第二次神聖戦争におけるポーキスによるデルポイの占領をめぐる一連の争いは、デルポイのアポロン神殿の聖域の支配をめぐる古代ギリシアにおける聖戦であると同時に、

アテナイとスパルタギリシア世界の覇権をめぐる代理戦争としても位置づけられることになると考えられるのです。

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ヒポクラテスの誓いと古代ギリシアにおける第一次神聖戦争との関係:ネブロスによる医学的な知識の軍事的な兵器への転用 https://information-station.xyz/20479.html Sat, 04 Jul 2020 14:55:14 +0000 https://information-station.xyz/?p=20479 前回書いたように、デルポイのアポロン神殿の聖域を隣国の都市国家であったキラが制圧したことによってはじまった古代ギリシアにおける第一次神聖戦争では、

聖域への侵略者となったキラの人々がアポロン神殿を保護するシキュオンを盟主とする隣保同盟の同盟軍からの包囲攻撃を受けることになります。

そして、こうした第一次神聖戦争においては、アテナイの賢者であったソロンによる水攻めの計略と、ネブロスという名の医術師が用いたヘレボルスの毒によってキラの町は滅亡することになるのですが、

こうした古代ギリシアの第一次神聖戦争におけるヘレボルスの毒を用いた計略によるキラの町の滅亡という出来事は、

医学の父としても知られる古代ギリシアの医者であるヒポクラテスとも深い関わりのある出来事としても位置づけられることになるのです。

古代ギリシアの名医ネブロスによる医学的な知識の軍事的な兵器への転用

紀元前6世紀に起きた古代ギリシアの第一次神聖戦争においては、ヘレボルスと呼ばれる強い薬効を持つ植物の根に含まれる毒素が用いられることによってキラの人々は腹痛や痙攣の発作に襲われて無力となり、自分たちが住む町への同盟軍の侵攻を許してしまうことになります。

そして、こうしたヘレボルスの根に含まれる劇薬の成分毒として転用することによって戦争を勝利へと導くことに貢献したネブロスという名の人物は、

ギリシア神話において医学の守護神としても位置づけられている伝説的な名医であったとされているアスクレピオスの血を引くともされている古代ギリシアにおける有数の医師団の家系の出身であったと伝えられています。

つまりそういった意味では、第一次神聖戦争においてヘレボルスの根に含まれる毒素を用いて戦争の勝利に貢献したネブロスは、

自らが持つ医学的な知識を利用してそれを人間を傷つける軍事的な兵器として転用することによって同盟軍の勝利へと貢献することになったと考えられることになるのです。

ヒポクラテスの誓いと古代ギリシアにおける第一次神聖戦争との関係

そして、こうしたネブロスと同じくギリシア神話における伝説的な名医であるアスクレピオスの血を引くと伝えられている人物としては、古代ギリシアを代表する名医であり医学の父としても位置づけられているヒポクラテスの名も挙げられることになります。

紀元前4世紀の古代ギリシアの医者であるヒポクラテスは、イオニア地方に近いエーゲ海南東部の島であったコス島で生まれたのち、

ギリシア神話における医学の守護神でもあるアスクレピオスを祀る神殿であると同時に古代の診療所でもあったアスクレピオス神殿において医師としての修行を積んでいくことになります。

そしてその後、古代ギリシアを代表する名医として大成することになったヒポクラテスは、医師が守るべき倫理的な規範が示されたヒポクラテスの誓いと呼ばれる神へと捧げられた宣誓文を残したとも伝えられていて、

こうしたヒポクラテスの誓いと呼ばれる医師としての倫理的な使命が記された宣誓文においては、

「自らが持つ医療的な知識と技術を患者の病気や怪我を治療するためだけに用いて、人を傷つけることや不正行為に決して用いることがなく

もしも毒を投与するよう求められたとしてもその求めには応じず毒を投与することを勧めることも一切行わない。」

といった一連の文言が語られていくことになります。

そして、そういった意味では、こうしたヒポクラテスの誓いと呼ばれる医師としての宣誓文のなかで語られている「人を傷つけない」「毒を投与することを勧めない」といった文言は、

ヒポクラテスが自らの師にして祖先にあたるとも伝えられている古代のアスクレピオスたちのうちの一人であったネブロス第一次神聖戦争の際に行ったヘレボルスの根に含まれる劇薬の成分毒として転用といった出来事を念頭に置いて語られている文言であるとも解釈することができると考えられることになります。

つまり、ヒポクラテスは、そうした古代ギリシアの第一次神聖戦争における医学的な知識の軍事的な兵器として転用という出来事を医学史における一つの負の歴史として認識したうえで、

医療的な知識と技術を人間の命を救うことではなくその反対に人間を害するために用いることを強く戒めるヒポクラテスの誓いと呼ばれる医師としての倫理的な使命のあり方が示された一連の宣誓文を形づくっていくことになっていったとも考えられることになるのです。

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第一次神聖戦争におけるデルポイとキラの戦い:アテナイのソロンによる水攻めの計略とヘレボルスの毒 https://information-station.xyz/20469.html Fri, 03 Jul 2020 14:59:04 +0000 https://information-station.xyz/?p=20469 前回書いたように、古代ギリシアでは、デルポイのアポロン神殿に代表されるような神殿や聖域の管理と維持や互いの親善などを目的として都市国家の間で隣保同盟と呼ばれる緩やかな同盟関係が結ばれていたのですが、

こうした隣保同盟の内部における聖域の支配や宗教的な権益をめぐる争いは、しばしば、デルポイとその周辺に位置する都市国家、さらには、アテナイやスパルタといったギリシア全土の都市国家へと波及していく大規模な宗教戦争へと発展していくことになります。

そして、こうした隣保同盟の内部抗争から発展した古代ギリシアにおける一種の宗教戦争にあたる神聖戦争と呼ばれる戦いは、歴史上の記録によれば、紀元前595年に、都市国家の存亡にも関わる最初の大規模な戦いが行われることになったとされています。

第一次神聖戦争におけるキラの町の包囲とアポロンの予言

第一次神聖戦争におけるデルポイとキラとの位置関係

紀元前595にはじまる第一次神聖戦争においては、デルポイの南西に位置する古代フォキス地方を代表する都市国家の一つであったキラが隣接するデルポイの地へと勢力を拡大して聖域の一部を自らの領土として切り取ってしまったことに対して、

これをデルポイの地を司るギリシア神話の光明神にして予言の神でもあったアポロンへの冒瀆の罪に値すると捉えた隣保同盟に加盟する古代ギリシアの諸都市がキラの町の討伐へと乗り出すことによって戦争が始まることになります。

ペロポネソス半島の北東部に位置する都市国家であったシキュオンの僭主クレイステネスを司令官としてアテナイのソロンを助言者として迎え入れた隣保同盟の同盟軍は、大規模な軍勢を率いてキラの町を包囲することになるのですが、

こうした同盟軍側からの包囲攻撃に対してキラの人々は自分たちが新たに支配することになった聖域を司る神であるアポロンに戦いの行く末を占う神託の言葉を求めることになります。

そして、こうしたキラの人々からの求めに応じて、ギリシア神話の光明神にして予言の神であるアポロンからは、

「自らが司る神域が海へと触れることがない限り、キラの町が征服されることはない」という神託が下されることになります。

そして、こうした神託の言葉を聞いたキラの人々は、自分たちの町が海からは離れた内陸地にあったことから、海が川を遡って町へと押し寄せてくることがない限り予言の言葉が成就することはあり得ないと考えて安堵することになります。

しかしそれに対して、こうしたキラの人々に下された神託の言葉を耳にした隣保同盟の同盟軍の人々は、アテナイの立法者にしてギリシア七賢人の一人としても数え上げられていたソロンの知恵により、キラの町から海へと至る周辺の地域に住む人々を説得して、これらの地域の土地をすべてアポロンへと捧げることにします。

こうして新たな土地を無理やり与えられることで町の側を海へと近づけられることになってしまったキラの町は予言の言葉の通りに海へと触れさせられてしまうことになるのです。

アテナイのソロンによる水攻めの計略とヘレボルスの毒

そしてその後、シキュオンを盟主とする同盟軍とキラの町の軍勢との戦いである第一次神聖戦争は十年にもわたって続いていくことになるのですが、

アテナイのソロンの計略によって行われた治水工事によってキラの町へと流れる水路をすべて断絶すると、キラの人々は飢えと渇きによって苦しめられていくことになります。

しかし、それでもキラの人々は雨水をためることによって渇きをしのいで抵抗を続けていくことになるのですが、今度はそれに対して、

ネブロスという名の医術師によってヘレボルスと呼ばれる強い薬効を持つ植物の根を用いた計略が用いられることになり、

同盟軍の人々は、それまで止めていたキラの町へと流れる水路を再び開通させると、その水にヘレボルスの根の毒を流し込んでいくことにします。

長らく待ち望んできた水路の流れが復活したのを目にしたキラの町の人々は、喜び勇んで我先にと新鮮な川の水を口にすることになるのですが、その水に含まれていたヘレボルスの毒によって腹痛や痙攣の発作に襲われることになります。

そしてその後、そうしたヘレボルスの毒によって無力となったキラの町に同盟軍の軍勢が一気に突入することによってキラの町は滅んでしまうことになり、

こうして第一次神聖戦争シキュオンを盟主としてアテナイなどの諸都市も加わっていた同盟軍の側の勝利に終わることになるのです。

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神聖戦争の起源と古代ギリシアの隣保同盟との関係:古代ギリシア語におけるヒエロス・ポレモスの意味とアンピクテュオン https://information-station.xyz/20461.html Thu, 02 Jul 2020 14:59:09 +0000 https://information-station.xyz/?p=20461 前回書いたように、古代ギリシア世界におけるマケドニアによるギリシア本土への侵攻とその後のギリシアからエジプトそしてメソポタミアからインド西部にまで至る大帝国の建設は、

アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2が当時アテナイやスパルタやフォキスといったギリシア本土の都市国家の間で起きていた第三次神聖戦争に介入したこときっかけとしてはじまっていくことになります。

それでは、そもそもこうした古代ギリシアにおける神聖戦争と呼ばれる古代から続く一連の戦争は、具体的にどのような歴史的な経緯と伝統に基づいて行われていた戦争であったと考えられることになるのでしょうか?

古代ギリシア語におけるヒエロス・ポレモスの意味と宗教戦争としての神聖戦争

神聖戦争と呼ばれる戦いは、古代ギリシア語ではヒエロス・ポレモス(ερός πόλεμοςと呼ばれることになりますが、

古代ギリシア語においてヒエロス(ερόςとは「神聖なる」「聖域」のことを意味するのに対して、ポレモス(πόλεμος「戦争」のことを意味することになります。

古代ギリシア世界においては、アポロンゼウスなどのギリシア神話の神々を祀る神殿や聖域が信仰を共有するギリシアの都市国家によって共同で管理や維持されていたのですが、

そうした神殿や聖域の周辺の地域においては、しばしばその土地の支配と聖域の内に奉納されている莫大な資産などの宗教的な権益をめぐった争いが起きることがあり、

そうした神殿や聖域の周囲の地域的な争いが信仰を共有するギリシア世界全土へと広がることによって大規模な戦争へと発展していくことがありました。

そしてそのなかでも、ギリシア中部のフォキス地方に位置するデルポイのアポロン神殿がこの地で下される神託の言葉などを通じてギリシア全土の都市国家から広く信仰されていくことになるのですが、

そういった意味では、こうしたヒエロス・ポレモス、あるいは、神聖戦争と呼ばれる一連の戦いは、一言いうと、

デルポイのアポロン神殿を中心とする神殿と聖域の支配とその宗教的な権益をめぐって争われることになった古代ギリシアにおける宗教戦争として位置づけられることになるのです。

古代ギリシアの隣保同盟と古代アテナイの王アンピクテュオン

そして、古代ギリシアにおいては神殿や聖域の管理と維持のために、周辺の都市国家の間で互いの親善などを目的とした隣保同盟と呼ばれる緩やかな同盟関係が結ばれていたのですが、

そうした古代ギリシアにおける最も有名な隣保同盟としては、デルポイのアポロン神殿を中心としたアテナイスパルタといった有力諸都市を含むギリシア全土の部族が参加していた同盟の存在が挙げられることになります。

こうした隣保同盟と呼ばれる同盟関係は、古代ギリシア語ではアンピクティオニア(μφικτυονίαと呼ばれることになるのですが、

こうしたアンピクティオニア(ἀμφικτυονία)という言葉は、古代ギリシア語において「周辺に住む人々」「隣人」といった意味を表すアンピクティオネス(ἀμφικτύονες)という言葉に由来するとも、

ギリシア神話における洪水伝説で有名なデウカリオンの息子にしてのちにアテナイの王となったアンピクテュオンによって創設されたとも伝えられていることから、そうした古代のアテナイ王の名が由来となっているとも伝えられています。

そして、こうしたアンピクティオニア、あるいは、隣保同盟と呼ばれるギリシアの都市国家の間における互いの親善を目的とした宗教的な同盟関係においては、

前述したように、神殿や聖域の支配やその宗教的な権益をめぐって争いが起きることによって同盟内部における戦争へと発展していくことがあったと考えられることになります。

そして、そのなかでも特に、デルポイのアポロン神殿を中心としたギリシア全土の都市国家を巻き込む大規模な隣保同盟においては、

しばしば、デルポイとその周辺に位置するフォキスやキラといった都市国家の間で起きた争いがアテナイスパルタといった有力諸都市を含むギリシア全土の都市国家へと波及していくことによって、

第一次神聖戦争から第四次神聖戦争までの四回にわたって戦われていくことになる古代ギリシアにおける一連の宗教戦争の展開へとつながっていくことになっていったと考えられることになるのです。

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第三次神聖戦争へのマケドニアの介入と隣保同盟への加盟:トラキアおよびイリュリアとの国境地帯の平定とテッサリアへの進出 https://information-station.xyz/20452.html Wed, 01 Jul 2020 14:56:56 +0000 https://information-station.xyz/?p=20452 前回書いたように、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2は、サリッサと呼ばれる長大な両手槍を装備したマケドニア式のファランクスの導入や斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集戦術の改良などを通じた軍制改革および戦術改革によってマケドニアを中央集権的な強大な軍事国家へと導いていくことになります。

そして、こうしてマケドニア国内における政治的および軍事的な地盤を着々と固めていったフィリッポス2世は、トラキアテッサリアといったマケドニアの周辺地域へと勢力を拡大していったのち、ついにギリシア本土の都市国家へと向けて進軍を開始していくことになるのです。

トラキアおよびイリュリアとの国境地帯の平定とテッサリアへの進出

第三次神聖戦争へのマケドニアの介入とフォキスへの侵攻

紀元前359マケドニアの王として即位したフィリッポス2は、マケドニア国内における軍事改革と政治改革を進めていったのち、

まずは東方のトラキアとの国境地帯に自らの名を冠したラテン語や英語ではフィリピ(Philippi、古代ギリシア語ではピリッポイ(Φίλιπποιと呼ばれる都市の建設を進めていったうえで、

こうして新たに建設されたピリッポイの町軍事拠点として、近くにあったパンガイオンの金鉱開発と周辺地域への勢力の拡大を図っていくことになります。

そしてその後、マケドニアの北東に位置するトラキアや、北西に位置するイリュリアといった北方の勢力との国境地帯を平定することによって国内へと侵攻する対外勢力の脅威を排除したフィリッポス2世は、

今度はマケドニアの南方に位置するテッサリアへと進出したうえで、その進軍の矛先をさらに南方に位置するギリシア本土の都市国家へと向けていくことになるのです。

第三次神聖戦争へのマケドニアの介入と隣保同盟への加盟

こうして北方においてフィリッポス2世の率いるマケドニア王国の台頭が進んでいた当時に、マケドニアの南方に位置するギリシア本土においては、

テーバイからの圧迫を受けていたフォキスの軍勢がアポロン神殿の聖域があったデルポイへと侵攻したことによって起きた第三次神聖戦争のさなかにあったのですが、

こうした紀元前356年にはじまる第三次神聖戦争における混乱のなか、フォキスと敵対関係にあったテッサリアからの救援要請を受けることになったマケドニアのフィリッポス2世は、

紀元前354年にそうしたテッサリアからの援軍の要請とデルポイの神域を奪還することを口実としてギリシア本土への進軍を開始することになります。

しかし、こうしたマケドニア軍のギリシア本土への進軍と第三次神聖戦争への介入に対して危機感を強くしていたアテナイスパルタといったギリシア本土の有力諸都市がフォキスに援軍を送っていたこともあって、

フィリッポス2世の率いるマケドニア軍は開戦の初期には苦戦を強いられていくことになるのですが、その後、サリッサを装備したマケドニア式のファランクスを中心とするマケドニアとテッサリアの連合軍が徐々に優勢となり、

紀元前346年にフィリッポス2世の率いるマケドニア軍がフォキスを制圧することによって第三次神聖戦争は終結の時を迎えることになります。

そして、こうした第三次神聖戦争の終結とデルポイの神域からフォキスの軍勢を排除した功績によって、

マケドニアは、神殿や聖域を共同で守護する古代ギリシアにおける都市国家間の古くからの同盟にあたるギリシアの隣保同盟の一員として正式に認められることになります。

そして、こうした第三次神聖戦争への介入と勝利、そして、その後のギリシアの隣保同盟への加盟によって、実質的にアテナイやスパルタやテーバイといったギリシア本土の都市国家同列の地位にまで昇りつめていくことになったマケドニアを率いるフィリッポス2世は、その後さらに、ギリシア全土における覇権の確立を目指していくことになるのです。

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サリッサと呼ばれるマケドニアの長大な両手槍の特徴とフィリッポス2世による改良型斜線陣の展開 https://information-station.xyz/20443.html Tue, 30 Jun 2020 14:59:25 +0000 https://information-station.xyz/?p=20443 前回書いたように、紀元前359に新たにマケドニアの王として即位することになったフィリッポス2は、

その後、フィリピの町の近くにあったパンガイオンの金鉱開発によって得られた豊富な資金を財源として、マケドニア国内における軍制改革を中心とする様々な政治改革を進めていくことになります。

そして、こうしたマケドニアフィリッポス2によって進められた軍制改革のなかでも後世にまで影響をおよぼしていくことになった戦術面での大きな変化としては、

ファランクスと呼ばれる密集陣形をとる重装歩兵サリッサと呼ばれる長大な槍を装備させたことと、テーバイの名将エパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれるファランスクの戦術に新たな改良をもたらしたという二つの点が挙げられることになります。

サリッサと呼ばれるマケドニアの長大な両手槍の特徴

マケドニアのファランクス

(マケドニアのファランクス:出典:Wikimedia Commons:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Makedonische_phalanx.png Macedonian phalanx, Credit: F. Mitchell, Department of History, United States Military Academy, 1984)

サリッサまたはサリーサ(sarissaとは、フィリッポス2世による軍制改革以降の古代マケドニアの軍隊において用いられることになった長大な両手槍のことを意味する言葉であり、

マケドニアの台頭以前の古代ギリシアの重装歩兵が用いていた一般的な槍の長さがだいたい2.12.7 mくらいであったのに対して、古代マケドニアの重装歩兵が用いていた槍の長さはそのほぼ2からそれ以上となる46mにもおよぶ長大な槍であったと考えられています。

そして、こうしたマケドニアの重装歩兵が用いる長大な槍は、戦闘における耐久性を高めるために柄の部分の材質に丈夫で弾力のある木材であるコーネル材が用いられていて、槍全体の重量は5.5 6.5 kgにもおよぶ非常に重い槍でもあったため、

通常の重装歩兵が槍を右手に持って盾を左手に装備する形で戦っていたのに対して、サリッサを装備したマケドニアの重装歩兵たちは重く長大な槍を常に両手で支え持つ形で戦闘にあたり、円形の盾を首から吊り下げる形で自らの左半身を守る防備としていたと考えられています。

そして、こうしたサリッサと呼ばれる長大な両手槍を捧げ持つ重装歩兵の密集隊によって構成されるマケドニア軍のファランクスにおいては、そうした長大な槍の特性を生かして、敵軍の重装歩兵に対して武器の間合いにおいて圧倒的な有利を誇ると同時に、

正面から向かってくる敵に対して、前列の重装歩兵の隊列のすき間から、後列の重装歩兵が持つ無数の槍が突き出してくることによって、前面の敵に対して通常のファランクスの数倍におよぶ圧倒的な攻撃力を発揮することになっていたと考えられることになるのです。

フィリッポス2世による改良型斜線陣の展開と古代最強の軍隊の形成

そして、こうしたサリッサを装備したマケドニアのファランクス圧倒的な攻撃力敵陣への突破力をより強力に生かしていくために、

フィリッポス2世は、かつて自分が若い頃に人質生活を送ることになったギリシア中部のボイオティア地方の中心都市であったテーバイにおいて、

この都市国家を代表する名将でありギリシア随一の戦術家としても知られていたエパミノンダスから学んだ斜線陣と呼ばれるファランクスの新戦術にさらに独自の改良を加えていくことになります。

テーバイの名将であるエパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれるファランクスの戦術においては、自軍の左翼のみに兵力を偏らせた不均等な陣形をとることによって、

圧倒的な兵力を集中させた左翼から突撃を開始して、兵力が手薄になっている右翼へと向かって突撃を順次遅らせていく斜めに構えた陣形を形成していくことによって左翼からの敵陣の突破を図っていくことになります。

それに対して、フィリッポス2世によって考案されたマケドニア軍における改良型の斜線陣の陣形においては、

自軍の右翼の側にサリッサを装備した重装歩兵の密集隊を集中して配置したうえで、敵陣に対する突破力をさらに高めるために、ヘタイロイと呼ばれる重装備の騎兵隊を重装歩兵の近くに配置し、

さらに、左翼と右翼のどちらの方面からも敵陣の突破を試みることができるように、両翼の前方軽装の騎兵隊を配置することによって自軍の機動力を強化していくことになります。

そしてこのように、フィリッポス2世が重装歩兵の陣形に騎兵隊を組みわせて用いることによって、より柔軟性が高く機動力に優れた軍の運用を行うことができた理由としては、

そもそもマケドニアが南方のギリシア世界東方のペルシア帝国とのちょうど中間に位置する地において興隆していくことになった新興国であったという点が大きく影響していると考えられることになります。

ギリシア軍の主体がファランスクと呼ばれる密集陣形をとる重装歩兵であったのに対して、ペルシア軍の精鋭部隊には主に騎兵を主体とする部隊が用いられていたと考えられるのですが、

つまり、そういった意味では、ギリシア世界とペルシア帝国のちょうど中間に位置するマケドニアにおいては、両者の軍隊における戦術や装備の優れた面が取り入れさらに進化していくことによって、

サリッサと呼ばれる長大な両手槍を装備した重装歩兵の密集隊と、ヘタイロイと呼ばれる重装備の騎兵隊を主体とする攻撃力と機動力の両面において優れた古代における最強の軍隊が形づくられていくことになっていったと考えられることになるのです。

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フィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発:フィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革と中央集権化 https://information-station.xyz/20434.html Mon, 29 Jun 2020 14:58:58 +0000 https://information-station.xyz/?p=20434 前回書いたように、ペロポネソス戦争後のマケドニアにおける王権争いのなかで、マケドニア国内における争いを調停するための人質としてテーバイへと送られることになったフィリッポスは、

この地での人質生活においてテーバイの名将であったエパミノンダスから重装歩兵の密集陣形であるファランスクの戦術や、斜線陣と呼ばれる新たな戦術を学ぶことによってギリシア世界における最新の軍事的知識に深く精通していくことになります。

そしてその後、マケドニアの王として即位することになったフィリッポスは自らの軍事的な才能と知識とを生かしていくことによってマケドニアの軍制改革へと乗り出していくことになるのです。

フィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発

ピリッポス2世によるフィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発

紀元前359に、マケドニアの人々の推挙によって新たにマケドニア王として即位することになったフィリッポス2は、

すぐにマケドニア国内における軍制改革を中心とする政治改革を進めていくと同時に、経済面においては、パンガイオンの金鉱開発を進めていくことになります。

マケドニアとトラキアの国境地帯に位置するパンガイオンの地は、古くから金の産地として知られていて、周辺の諸都市がその支配をめぐって争いあう係争の地となっていたのですが、

マケドニア王の座についたフィリッポス2世は、すぐにこの地に軍を送り込んで占領下に置くと、パンガイオンの地にすぐ北に隣接する土地に自らの名を冠したピリッポイと呼ばれる都市を建設することになります。

ちなみに、こうした古代ギリシア語においてピリッポイ(Φίλιπποιと呼ばれている町は、ラテン語や英語ではフィリピ(Philippiと表記されることになりますが、

こうしたフィリピと呼ばれる町は、使徒パウロの書簡とされている新約聖書「フィリピの信徒への手紙」などでも知られるキリスト教にとっても馴染み深い町として位置づけられることになります。

そして、こうして新たに建設されたピリッポイの町軍事拠点としてマケドニアによる周辺地域の支配を確立したフィリッポス2は、その後、パンガイオンの金鉱開発を急速に進めていくことになり、

ピリッポイの町の近くで新たな金鉱が発見されることになると、この地に造幣所を築いて良質で精巧な金貨を鋳造していくことによって、その後のマケドニアにおける軍事改革を行っていくための十分な資金源を手にすることになるのです。

ィリッポス2世によるマケドニアの軍制改革と中央集権化

こうしてフィリピの町の建設とパンガイオンの金鉱開発によって十分な資金源を手にすることになったフィリッポス2は、その後、さらに本格的な軍制改革へと乗り出していくことになります。

まずは、それまで一騎打ちなどの単騎による単独行動を得意としていた貴族を中心とする騎兵たちを騎兵隊へと組織することによって全体的な軍の陣形の内へと組み入れたうえで、

槍を装備した重装歩兵に対抗するために騎兵の側にも槍を装備させることによって、敵の重装歩兵の陣形に対する騎兵の突破力を強化していくことになります。

また、自軍の側の重装歩兵の戦術についても、かつて、テーバイでの人質生活におい名将エパミノンダスから学んだギリシアの重装歩兵の戦術をさらに改良して、

自軍の重装歩兵の集団にサリッサと呼ばれる通常よりも長大な槍を持たせて密集隊を編成することによって重装歩兵同士の衝突においても武器の間合いの差を利用して有利を築いていく戦術システムを構築していくことになります。

そしてそれと同時に、フィリッポス2世は、こうした軍事改革における軍隊の組織化を通じた支配力の強化を背景として政治改革を進めていくことによって、

それまで貴族による発言権が強く、実質的には貴族政に近い政治体制にあったマケドニア王国を国王を中心とする中央集権的な国家へとつくり変えていくことになるのです。

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フィリッポス2世の即位とテーバイでの人質生活におけるテーバイの名将エパミノンダスからの軍事的教育 https://information-station.xyz/20424.html Sun, 28 Jun 2020 14:59:29 +0000 https://information-station.xyz/?p=20424 前回書いたように、紀元前700ごろにギリシア人の一派にあったドーリア人の手によって建国されたのち、長い間、ギリシアの周辺の弱小国としての立場にとどまり続けていたマケドニア王国は、

その後、ペルシア戦争ペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じてアテナイなどのギリシア本土の都市国家との交流を深めていくことによって経済的にも文化面においても大きく発展していくことになります。

そしてその後、マケドニア王国は、アレクサンドロス大王の父にあたるフィリッポス2世の時代に、軍事的にも大きく発展していくことによって、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家をも凌ぐ強大な軍事国家へと変貌を遂げていくことになるのです。

マケドニアの王権争いとテーバイの人質となったフィリッポス

地理的な面においてペルシア帝国とアテナイやスパルタなどのギリシア本土の都市国家たちとのちょうど中間に位置していたマケドニア王国では、

もともとは、アテナイなどのギリシア本土の都市国家のように民主政が行われていたわけでもなければ、ペルシア帝国のように強大な王権による支配が築かれていたわけでもなく、

世襲制の王のもとに従者として仕える立場にあった領地を持った貴族たちが軍事的に強い力と発言権を持つ貴族政治に近い王政のもとで統治が行われていたと考えられることになります。

そして、ペロポネソス戦争期における木材の交易やアテナイを中心とするギリシア本土の都市国家との交流によって経済的および文化的に国家が大きく発展していくことになった後も、

マケドニア王国においては、そうした貴族たちの権力闘争なかで国王の暗殺などが続いていくことによって政治的な混乱状態がしばらくの間続いていくことになります。

そして、そうしたマケドニアにおける王位をめぐる争いのなか、マケドニアの人々は、当時、友好関係にあったギリシア本土の都市国家であったテーバイ王家の内紛の調停を求めることになり、

マケドニアに調停者として派遣されることになったテーバイの将軍であったペロピダスは、これ以上マケドニアでの王権争いが激化してくことを防ぐために、貴族同士が争いをやめるための一種の保証として、

のちにマケドニア王位を継ぐことになるフィリッポスを含む30人の貴族の子弟たちを人質としてテーバイへと連れ帰ることになるのです。

テーバイの名将エパミノンダスによる軍事的教育とフィリッポス2世の即位

こうしてギリシア中部のボイオティア地方の中心都市であったテーバイへと人質として連れて行かれることになったフィリッポスは、

この地において、ペロピダスの盟友でもあり、テーバイをギリシア世界の覇者へと導いた高名な将軍であったエパミノンダスによってその軍事的な才能を見いだされることになります。

そしてその後、エパミノンダスのもとで軍事的な教育を受けることを許されることになったフィリッポスは、テーバイの名将であるエパミノンダスから、

ファランクスと呼ばれる重装歩兵の密集陣形の運用の仕方や、斜線陣と呼ばれるエパミノンダスによって考案された新たな戦術を学んでいくことによって、当時のギリシア世界における最新の軍事的知識に深く精通していくことになります。

こうしてテーバイでの人質生活を終えて、マケドニアへと帰国することになったフィリッポスは、

紀元前359年にマケドニアの北西に位置するイリュリア人との戦いで命を落としたペルディッカス3世の息子として王位についていた自らの甥でもある幼少の王であったアミュンタス4世の摂政の地位に就くことによってマケドニアの国政の実権を握っていくことになります。

そしてその後、マケドニアにおいて再び北方のイリュリア人との間での戦争の兆しが見え始めてくるとピリッポスは、マケドニアの人々からテーバイの名将エパミノンダスからも高く評価された軍事的な才能を強く請われることによって、

紀元前359に、マケドニアの人々の推挙によってマケドニア王フィリッポス2として即位することになるのです。

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マケドニアの台頭とペルシア戦争期とペロポネソス戦争期の二段階にわたるアテナイなどのギリシア本土の都市国家との関係強化 https://information-station.xyz/20415.html Sat, 27 Jun 2020 14:59:24 +0000 https://information-station.xyz/?p=20415 前回書いたように、ギリシアの北方に位置するマケドニア王国は、紀元前700年ごろにスパルタアルゴスといったギリシア本土の都市国家と同じギリシア人の一派であるドーリア人によって建国されることになるのですが、

ペルシアを中心とする東方世界と、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家の中間に位置するマケドニアは、その後、長い間、正式なギリシア人の一員とは見なされないままギリシアの周辺国としての地位にとどまり続けていくことになります。

しかし、こうしたギリシアの周辺国としてのマケドニアの立場は、ペルシア戦争ペロポネソス戦争というギリシア世界における二つの大きな戦争の時代を通じて大きく変化していくことになるのです。

アレクサンドロス1世のペルシア帝国への服従とペルシア戦争期におけるギリシア本土の都市国家との関係強化

マケドニアの台頭とアルケラオス1世によるペラへの遷都

紀元前499に起きたイオニアのギリシア植民市によるアケメネス朝ペルシアへの反乱であるイオニアの反乱をきっかけとしてはじまったペルシア戦争では、

その後、紀元前492年と490年と480年の三回に分けて行われることになったペルシア帝国によるギリシア遠征によって、アテナイスパルタといったギリシア本土の都市国家たちは国家の存亡の危機へと立たされていくことになります。

そして、こうしたペルシア戦争における紀元前480第三回ギリシア遠征においてマケドニアは、北方から陸路を通ってギリシア本土へと押し寄せてきた30万ものペルシアの大軍の行軍路に位置していたため、

ギリシアの諸都市からはもともと防衛の対象にも位置づけられていなかった辺境の地にあったマケドニアは、そのままなすすべもなくペルシアの支配下へと組み込まれていくことになります。

しかしその一方で、当時のマケドニアの王であったアレクサンドロス1は、国家としてのマケドニアがペルシアの支配のもとに屈することになった後も、ペルシア軍を迎え討つために行軍していたギリシア軍の本隊に使者を放ち、

ギリシア本土へと押し寄せてくるペルシアの大軍の正確な規模を伝えることによってテルモピュライの戦いの前のギリシア軍の壊滅を防ぐことになります。

また、ペルシア軍とギリシア連合軍の最終決戦の舞台となった翌年のプラタイアの戦いの際には、開戦の直前にアレクサンドロス1世自らがアテナイの陣営へと赴き、

ペルシア軍の大将であるマルドニオスの戦略を密告してギリシア軍側の勝利に陰において大きく貢献していくことによって、ギリシア本土の都市国家との関係強化に努めていくことになるのです。

アルケラオス1世によるペラへの遷都とペロポネソス戦争期のアテナイとの友好関係

そしてその後、ペルシア戦争が終結した後のギリシア世界において、アテナイを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟が衝突するギリシア世界を二分する戦いとなるペロポネソス戦争がはじまることになると、

デロス同盟の海軍の勢力が自分たちが位置するエーゲ海の北方の領域にまで押し寄せてくることを恐れたマケドニアは、当初は、デロス同盟の盟主であるアテナイに対して敵対的な姿勢を見せていくことになります。

しかしその後、新たにマケドニアの王の座につくことになったアルケラオス1世は、ギリシア最大の先進国であったアテナイと結ぶことによる経済的および文化的な利益を重視して外交政策を大きく転換させていくことになり、

森林地帯が広がる広大な領土を持つマケドニアは、伐採によって樹木が乏しくなっていたアテナイを中心とするギリシア本土の都市国家に対して軍船の材料となる木材を供給することによって経済的に大きく発展していくことになります。

そしてその一方で、アルケラオス1世は、それまでのマケドニア王国の首都であったアイガイからペラへと遷都を行ったうえで、

マケドニアの新しい都となったペラには、友好関係を結ぶことになったアテナイからギリシア三大悲劇詩人の一人であったエウリピデスなどの数多くの芸術家や文化人たちが招かれていくことになり、

マケドニアは学問や文化さらには重装歩兵などの軍事改革の面においてもアテナイを中心とするギリシア本土の先進文明の制度や技術を広く取り入れていくことによって文化的そして軍事的にも発展していくことになるのです。

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マケドニアの建国とドーリア人との関係:ギリシア神話におけるマケドニアの起源とアルゲアス朝の名前の由来 https://information-station.xyz/20407.html Fri, 26 Jun 2020 14:58:56 +0000 https://information-station.xyz/?p=20407 前回書いたように、ペロポネソス戦争後ギリシア世界の覇権を握ることになったスパルタは、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いでテーバイ軍に大敗することによって国力を衰退させていくことになり、

レウクトラの戦いにおけるスパルタへの勝利によって新たにギリシア世界の覇権を手にすることになったテーバイもまた、紀元前362年に起きたマンティネイアの戦いにおいて、それまでの快進撃を導いてきた名将エパミノンダスを失うことによってその後は凋落の一途をたどっていくことになります。

そして、ギリシア本土においてアテナイスパルタテーバイといった都市国家同士の分立と抗争による疲弊と衰退が続いていくなか、ギリシアの北方の地において新たな勢力となるマケドニアが台頭していくことになるのです。

マケドニアの建国とドーリア人との関係

マケドニアの建国とドーリア人が建設したペロポネソス半島の三つの都市国家

そもそも、古代ギリシア世界におけるマケドニアの起源は、紀元前1200年ごろにはじまるギリシア人の一派であったドーリア人たちによる南方への民族移動にまでさかのぼることができると考えられ、

ギリシア北方の山岳地帯から南方のギリシア本土、そして、ペロポネソス半島へと侵入していったドーリア人たちは、先進文明であったミケーネ文明の諸都市を武力によって制圧していったうえで、

ペロポネソス半島の各地にスパルタアルゴスメッセニアといった都市国家を建設していくことになります。

そしてその一方で、ドーリア人たちのなかには、南方への民族移動には参加せずに北方の山岳地帯にとどまった人々もいたと考えられ、

そうしたギリシア本土への民族移動には加わらなかったドーリア系のギリシア人たちの手によって紀元前700年ごろにアルゲアス朝と呼ばれる王朝を最初の王朝とするマケドニア王国が建国されることになったと考えられることになるのです。

ギリシア神話におけるマケドニアの起源とアルゲアス朝の名前の由来

ギリシア神話においては、アルゴススパルタメッセニアといったペロポネソス半島におけるドーリア系の都市国家は、

アマゾンの女王や地獄の番犬ケルベロスとの戦いといった十二の功業などで名高いギリシア神話最大の英雄であるヘラクレスの子孫にあたるテーメノスクレスポンテースアリストデーモスの三兄弟によってそれぞれ建国されたと伝えられているのですが、

これらの国々と同じくドーリア人よって建設された王国であったマケドニアの人々は、自分たちの王国の起源もまたそうしたギリシア神話における英雄ヘラクレスの存在へとさかのぼることができると主張していたと考えられています。

そして、マケドニアの最初の王朝を築くことになったアルゲアス家の人々は、そうしたヘラクレスの子孫にあたる三兄弟のなかでも、アルゴスを建国したテーメノスの血をひくことを自称していたため、

こうしたヘラクレスの子孫にあたるテーメノスによって建国されたと伝えられているギリシアの都市国家であるアルゴスの名をとって、アルゲアスという王朝の名がつけられることになったと考えられることになるのです。

ギリシアの周辺国としてのマケドニアの地位とギリシア本土との交流

そしてその後、長い間、マケドニアは、ペルシアを中心とする東方世界と、アテナイやスパルタといったギリシア本土の都市国家の中間に位置することによって、ギリシアの周辺国としての地位にとどまり続けることになり、

ペルシア人たちからはギリシア側の国とみなされる一方で、ギリシア人たちからはペルシアに近い異国の人々とみなされることによって異民族や異邦人のことを意味するバルバロイという言葉で呼び表されていくことになります。

しかしその一方で、森林地帯が広がるマケドニアは、伐採によって樹木が乏しくなっていたアテナイなどのギリシア本土の都市国家に対して船の材料となる木材を供給することなどによって、

建国当初の首都であったアイガイを中心に経済的に発展していくと同時に、ギリシア本土の都市国家との交流を深めていくことになるのです。

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マンティネイアの戦いにおけるエパミノンダスの死とテーバイの覇権の終焉:スパルタとアテナイの同盟と盟友ペロピダスの死 https://information-station.xyz/20397.html Thu, 25 Jun 2020 14:57:33 +0000 https://information-station.xyz/?p=20397 前回書いたように、レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍のスパルタ軍に対する圧倒的な勝利によって、古代ギリシアの覇権はスパルタの手からテーバイの手へと移っていくことになります。

そしてその後、勢いに乗るテーバイを中心とするボイオティア同盟軍の進撃によって、スパルタの経済の要となる支配地であったメッセニアが解放されることによってスパルタの国力大きく衰退していくことになるのですが、

こうしたテーバイによるギリシア世界の支配はそれほど長く続いていくことはなく、その勢いにはすぐに陰りが見えていくことになるのです。

スパルタとアテナイの同盟とエパミノンダスの盟友ペロピダスの死

マンティネイアの戦いでのテーバイ軍の勝利とエパミノンダスの死

紀元前371年レウクトラの戦いにおけるテーバイの名将であったエパミノンダスが率いるテーバイ軍のスパルタ軍に対する圧倒的な勝利ののち、

勢いに乗るテーバイ軍のペロポネソス半島への侵攻によって国家としての存亡の危機へと立たされることになったスパルタは、宿敵であったアテナイと手を結ぶことによって態勢の立て直しを試みていくことになります。

そしてそうしたなか、テーバイ軍は、テッサリアの南東部に位置するペラエの僭主であったアレクサンドロスとの戦いにおいて勝利することによってテッサリアからマケドニアへと至るギリシアの北方の地域における覇権を確立していくことになるのですが、

こうしたペラエの僭主アレクサンドロスの征討のために行われた紀元前364年のキュノスケファライの戦いでは、

エパミノンダスの盟友であったペロピダスが敵軍の大将を討つために敵陣へと突撃していった際に、深追いしすぎることによって戦死してしまうことになるのです。

マンティネイアの戦いでのテーバイ軍の勝利とエパミノンダスの

そしてその後、ペロポネソス半島中央部のアルカディア地方に位置するマンティネイアにおいて、この地の南方に位置するテゲアとのあいだで紛争が起きると、

マンティネイアの人々はテーバイに救援を要請したのに対して、テゲアの人々はスパルタとアテナイに救援を要請することになります。

そして、こうしたマンティネイアの人々からの援軍要請に応えて、テーバイから名将エパミノンダスが率いる遠征軍が派遣されることによって、

テーバイを中心とするボイオティア同盟の3万3000の軍勢と、アテナイとスパルタの連合軍の2万3000の軍勢がマンティネイアの地において対峙することになります。

こうして紀元前362年に起こることになったマンティネイアの戦いにおいては、テーバイの名将エパミノンダスが率いるテーバイ軍が全体としては優勢に戦いを進めていくことになるのですが、

それに対して、アテナイとスパルタの連合軍は、劣勢な戦況に立たされながらも、テーバイ軍の主柱となっているエパミノンダスの本隊に対する集中攻撃を行うことによって戦況の打開を図っていくことになります。

次々と一直線に自分のもとへと向かってくる敵兵による包囲攻撃を受けることになったエパミノンダスは、それでも進軍の歩みを止めることなく果敢に戦い続けていき、

自分に向かって雨のように降り注ぐ無数の矢を薙ぎ払い、敵兵が投げつけてくる槍を奪い取って投げ返していくなか、敵軍の将校の一人を討ち取りさえすることになるのですが、

そうした激闘のさなか、敵軍の後方から放たれた長槍がエパミノンダスの胸を真っ直ぐに貫くことによって死へと至る傷をその身に受けることになります。

しかし、こうして自らの軍の大将であるエパミノンダスを失うことになってもなおテーバイ軍の勢いはとどまることがなく、むしろ自分たちの大将の命を奪った敵軍に対する怒りによってその勢いはさらに増していくことになり、

テーバイ軍の激しい攻勢によって押し返されていくことになったスパルタの軍勢が総崩れとなり敗走していくことによって、戦いそのものはテーバイ軍の勝利に終わることになるのです。

エパミノンダスの最期の言葉とテーバイの没落

そして、致命傷を負ったのち、戦場を離れてテーバイ軍の野営地へと担ぎ込まれ、部下たちから戦況を聞かされることになったエパミノンダスは、

「私は将軍としての最高の生涯を全うすることになる。なぜなら敗北を知らずに死を迎えることができたのだから。」

と語ることによって、最期の時まで、自分と共に戦ってきた戦友と兵士たちを讃えて力づける言葉を残して死を迎えることになったとも伝えられています。

しかしその一方で、こうしたマンティネイアの戦いにおけるテーバイ軍の奮戦と劇的な勝利にも関わらず、その後のギリシア世界におけるテーバイの覇権は長続きすることはなく徐々に衰退の道へと向かっていくことになります。

レウクトラの戦いでの勝利にはじまるテーバイの覇権への道は、エパミノンダスとその盟友であるペロピダスという二人の名将の卓越した才覚と武の力によって切り拓かれたものであったため、

そうしたテーバイ軍の勝利の立役者となった二人の名将の命が失われることになった時、その力によってもたらされていたテーバイの覇権そのものもまたついえてしまうことになったと考えられることになるのです。

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レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利とペロポネソス半島への侵攻とメッセニアの解放によるスパルタの国力の衰退 https://information-station.xyz/20387.html Wed, 24 Jun 2020 14:54:25 +0000 https://information-station.xyz/?p=20387 前回までに書いてきたように、古代ギリシアの覇権がスパルタからテーバイへと移っていく転換点となったレウクトラの戦いは、

テーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の新戦術と、ペロピダスが率いる神聖隊の活躍によってテーバイ軍の勝利に終わることになります。

そしてその後、レウクトラの戦いでの勝利によって勢力を大きく増大していくことになったテーバイ軍を中心とするボイオティア同盟の軍勢は、

その勢いを駆ってスパルタを中心とするペロポネソス同盟の勢力圏にあたるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになるのです。

レウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的勝利

レウクトラの戦いでのテーバイ軍の勝利とメッセニアの解放

紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいては、

テーバイを盟主とするボイオティア同盟軍の重装歩兵を主力とする7000の軍勢と、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟の同じく重装歩兵を主力とする1万の軍勢が、

ギリシア中部のボイオティア地方に位置する平野であったレウクトラの地において激突することになります。

そして、レウクトラの戦いでは、ギリシア最強の陸軍として恐れられていたスパルタの重装歩兵を擁するうえに数においても勝るペロポネソス同盟の軍勢に対して、

ボイオティア同盟軍を率いるテーバイの名将であったエパミノンダスは、斜線陣と呼ばれる左翼のみに兵力を集中させた不均等な陣形を特徴とする重装歩兵の密集陣形における新戦術を導入することによって対抗することになります。

開戦と同時に、重厚な兵力が投入されたテーバイ軍の左翼の重装歩兵の軍団が突撃を開始する一方で、兵力が手薄になっている右翼の軍団の進軍を遅らせることによって左翼から右翼へと斜めに下がっていく陣形が構築されていくことになり、

主力となる左翼の先陣を任されることになったペロピダスが率いるテーバイ軍の精鋭歩兵部隊である神聖隊の奮戦もあってテーバイ軍の左翼がスパルタ軍の右翼を食い破ると、

そのまま遅れて進軍してきた右翼の軍団と前線を突破して敵陣の裏側へと回り込んだ左翼の軍団で残されたスパルタ軍の兵士たちを挟み撃ちにしていくことになります。

こうしてレウクトラの戦いは、

テーバイを中心とするボイオティア同盟軍の側の戦死者の数がわずか50人から多くても300人程度であったのに対して、

スパルタを中心とするペロポネソス同盟の側の戦死者の数は1000人から4000人以上にもおよぶという大損害を被ることによって、テーバイ軍の側の大勝利に終わることになるのです。

テーバイ軍のペロポネソス半島への侵攻

そして、こうしたレウクトラの戦いにおけるテーバイ軍の圧倒的な勝利を目にしたギリシアの各都市は、次々にテーバイの覇権のもとへとつき従っていくことによって、

一時は、テッサリアからマケドニアにまで至るギリシア世界の広大な領域がテーバイの勢力下へと入っていくことになります。

そしてその後、ギリシアの各地から兵を募って大規模な遠征軍の準備を整えたテーバイの名将であるエパミノンダスは、7万にもおよぶ大軍を引き連れてスパルタの勢力圏であるペロポネソス半島への侵攻を開始していくことになります。

こうしてレウクトラの戦いの1年後にあたる紀元前370年頃からはじまったテーバイによるペロポネソス半島への侵攻においては、スパルタの側も決死の覚悟で防戦を続けていくことによって、何とかスパルタ本国の占領だけは免れることになるのですが、

長いあいだヘイロタイと呼ばれる奴隷階級としてスパルタの支配のもとに服してきたメッセニアの人々がこうしたエパミノンダス率いるテーバイ軍のペロポネソス半島への侵攻に呼応して蜂起することによって、

メッセニアはヘイロタイのくびきから解放されたうえで都市国家としての独立を回復することになるのです。

メッセニアの解放によるスパルタの国力の衰退

そして、こうしたテーバイ軍の侵攻に呼応したメッセニアの解放によって、スパルタは国土の半分におよぶ土地を失うと同時に、労働力となる大量のヘイロタイをも失うことになるのですが、

そもそも、スパルタ軍の強さは、土地の耕作といった大部分の経済活動をヘイロタイと呼ばれる市民共有の奴隷たちに行わせたうえで、重装歩兵となるスパルタ市民たちは自らの武の力の磨くのに専念することによって生み出されていたので、

そうしたスパルタの武力の源となっていたヘイロタイという資産の大半が失われることになったスパルタでは国家体制のあり方そのものが大きく揺るがされていくことになります。

そして、こうしたメッセニアの解放とそれに伴うヘイロタイの減少によってスパルタの国力大きく衰退していくことになり、

それに代わって、テーバイギリシア世界の覇者として君臨していく時代が訪れることになるのです。

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愛のために戦う古代ギリシア最強の部隊である神聖隊のテーバイ軍での活躍と古代ギリシア語におけるヒエロス・ロコスの意味 https://information-station.xyz/20372.html Tue, 23 Jun 2020 14:59:15 +0000 https://information-station.xyz/?p=20372 前回書いたように、紀元前371年に起きたテーバイを盟主とするボイオティア同盟軍とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍の戦いであるレウクトラの戦いでは、

戦術面においてはテーバイの名将であり天才的な戦術家であったエパミノンダスによって編み出された斜線陣と呼ばれる重装歩兵の軍団における革新的な密集陣形の展開が行われることによってテーバイ軍の勝利が導かれることになったと考えられることになります。

そしてその一方で、こうしたレウクトラの戦いにおいては、そうしたエパミノンダスによる斜線陣の導入という戦術面の革新のほかに、

神聖隊と呼ばれるテーバイ軍の精鋭部隊の活躍がスパルタ軍に対するテーバイ軍の圧倒的な勝利に大きく貢献していくことになったと考えられることになるのです。

古代ギリシア語におけるヒエロス・ロコスの意味

古代ギリシア語においてはヒエロス・ロコス(Ἱερὸς Λόχοςと呼ばれることになる神聖隊と呼ばれる部隊は、

紀元前378年ごろに、テーバイの伝説的な将軍であったゴルギダスによって創設された少数の集団からなる精鋭歩兵部隊のことを意味することになります。

そして、こうしたテーバイの精鋭部隊のことを意味するヒエロス・ロコスという言葉は、

古代ギリシア語において「聖なる」「神聖な」といった意味を表す形容詞であるヒエロス(ἱερόςという形容詞と、

古代ギリシアにおける重装歩兵の密集隊形にあたる「ファランクスの部隊」のことを意味するロコス(ἱερόςという名詞が結びついてできた言葉であり、

こうしたヒエロス・ロコス、すなわち、神聖隊と呼ばれるテーバイの精鋭部隊は、その名の通り、神聖なる力、さらに言えば、神聖なる愛の力によって兵士同士が互いに強く結びつけられることによって戦場において大いなる力を発揮していくことになったと考えられることになるのです。

愛のために戦う古代ギリシア最強の部隊としてのテーバイの神聖隊

古代ギリシアにおいては、男女の恋愛と同様に、男同士が愛し合う同性愛も広く認められていたと考えられているのですが、

テーバイにおける神聖隊と呼ばれる精鋭部隊においても、広い意味では、そうした古代ギリシアの同性愛としての愛の形に近い兵士同士の単なる信頼や友愛を超えた神聖なる愛の感情を源泉として部隊における強い結束がもたらされていたと考えられることになります。

具体的には、こうしたテーバイの神聖隊は、

古代ギリシア語において「愛する者」ことを意味するエラステス(ἐραστήςと、「愛される者」ことを意味するエロメノス(ἐρώμενοςと呼ばれる二人で一組となる兵士たちの組によって構成されていて、

合わせて150組のエラステスとエロメノスの対によって構成される全部で300人の重装歩兵によって部隊が形づくられていたと考えられることになります。

そして、こうした神聖隊の戦いにおいては、戦場において互いに自分が愛する者そして自分を愛する者の前で、それぞれの愛に値するより優れた姿を見せたいという思いから、通常の兵士たちよりもよりいっそう勇猛に激しく戦うことになり、

もしも戦闘において、不運にも自らの片割れとなる戦士が敵の手にかかって命を落とすことになると、残された戦士は自らの半身を失ったことへの激しい報復の怒りによって我を忘れて鬼神のように戦い続いていくことになったため、

こうした愛のために戦い、愛する者のために自らの身を投げ打ってまで力を尽くしていく神聖なる愛によって結ばれたテーバイの神聖隊は、

幼少期からの徹底的な軍事訓練によって鍛え上げられた最強の陸軍であるスパルタの重装歩兵とはまた別の意味において古代ギリシア世界における最強の軍隊として恐れられていくことになっていったと考えられることになるのです。

ペロピダスが率いる神聖隊のレウクトラの戦いでの活躍

そして、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いの時には、この戦いにおいて斜線陣と呼ばれる新たな戦術を導入することになるテーバイの名将であるエパミノンダスの盟友であったペロピダス神聖隊の将としての地位にあったのですが、

レウクトラの戦いにおいてペロピダスが率いていた神聖隊は、この戦術の要となる開戦直後の敵陣への突撃と前線の突破の役目を担う左翼の軍団の先陣を任されることになります。

そして、いざ戦いがはじまると、ギリシア最強の無敵の陸軍として恐れられていたスパルタの重装歩兵の軍団を前にしても、互いの力を深く信じ合う神聖なる愛の力によって結ばれたテーバイの神聖隊の部隊は臆することなく猛然と敵部隊へと突撃していくことになり、

こうしたペロピダス率いる神聖隊の神聖なる愛の力を源泉とする情熱的な突撃によって、エパミノンダスの斜線陣の計略の通りにスパルタ軍の前線は撃破されることになり、

前線を突破したのちにさらに敵軍の背後へと回り込んで苛烈に殺戮を続けていく神聖隊の脅威斜線陣の破壊力の前に、スパルタの軍勢は壊走を余儀なくされることになります。

このように、紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいては、天才的な戦術家であったエパミノンダスの知性によって紡ぎ出された斜線陣と呼ばれる革新的な戦術と、

愛する者としてのエラステスと愛される者としてのエロメノスとの神聖なる愛の結合によって生み出されるペロピダス率いる神聖隊情熱的な結束力という二つの要素が合わさることによって、

スパルタ軍に対するテーバイ軍の輝かしい勝利がもたらされることになったと考えられることになるのです。

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エパミノンダスの斜線陣におけるテーバイ軍の具体的な配置と名称の由来:テーバイ名将による重装歩兵の密集陣形の戦術の革新 https://information-station.xyz/20363.html Mon, 22 Jun 2020 14:57:56 +0000 https://information-station.xyz/?p=20363 前回書いたように、ペロポネソス戦争とその後に起きたコリント戦争の後の時代のギリシア世界においては、ペロポネソス戦争の戦勝国となったスパルタの覇権が続いていくことになるのですが、

紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいてテーバイを中心とするボイオティア同盟軍スパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍を破ることによって、こうしたギリシア世界における覇権はスパルタからテーバイへと移っていくことになります。

そして、こうしたギリシア世界においてテーバイの覇権が確立されるきっかけとなったレウクトラの戦いにおいては、

テーバイの将軍にして政治家でもあったエパミノンダスが新たに用いた斜線陣と呼ばれる新たな戦術の導入によって、ギリシア世界における最強の陸軍であったスパルタの重装歩兵の軍団が撃破されることになるのです。

エパミノンダスによる重装歩兵の密集陣形の戦術の革新

レウクトラの戦いでのエパミノンダスの斜線陣によるテーバイ軍のスパルタ軍撃破の仕組み

紀元前4世紀テーバイの将軍であったエパミノンダス(Epaminondasは古代ギリシア語に基づく表記ではエパメイノンダス(Επαμεινώνδαςと表記されることになりますが、

こうしたエパミノンダスと呼ばれる人物は、数多くの戦いにおいて武功を上げたテーバイの名将であると同時に、ピュタゴラスの哲学に精通した民主派の政治家でもあり、合理性と柔軟な思考とを兼ね備えた天才的な戦術家であったと伝えられています。

そして、こうしたテーバイの名将であったエパミノンダスによって考案された斜線陣または斜陣戦法と呼ばれる新たな戦術においては、

古代ギリシアにおける陸上戦の主力部隊であったファランクスと呼ばれる重装歩兵による密集陣形の運用のあり方に革新的な変化がもたらされることになるのです。

斜線陣における重装歩兵の軍団の具体的な配置と名称の由来

こうしたそれまでの重装歩兵の密集陣形の定石に対して、エパミノンダスは、あえて、左翼のみに兵力を偏らせた不均等な陣形をとることによってそれまでの戦術の常識を覆していくことになります。

具体的には、エパミノンダスが考案した斜線陣と呼ばれる重装歩兵の密集陣形の戦術においては、通常の6倍にあたる48列の深さにおよぶ圧倒的な兵力を自軍の左翼に集中して配置したうえで、

兵力が手薄になっている右翼の敵陣への突撃を順次遅らせていくことによって自軍が圧倒的に有利な左翼での軍団の衝突と、自軍が不利な右翼での軍団の衝突が起こるまでに時間差できる仕組みをつくり出すことになります。

そして、この戦術においては、左翼と右翼の重装歩兵の軍団が衝突するまでに生じる時間差によって、上空から俯瞰した視点で戦場を眺めると、実際の戦闘の際には、

左翼から右翼へと斜めに下がっていく陣形が構築されていくことになるため、こうした斜線陣と呼ばれる名称がつけられることになったと考えられることになるのです。

斜線陣の活用によるレウクトラの戦いでのテーバイ軍の圧倒的勝利

そして、こうしたテーバイの名将エパミノンダスによって考案された斜線陣と呼ばれる革新的な戦術がはじめて導入されることになった紀元前371年レウクトラの戦いにおいては、

エパミノンダスが思い描いた策略通りに、横一線に並んだスパルタ軍の右翼の軍団に対して、圧倒的な兵力を集中させたテーバイ軍の左翼の軍団が突撃して前面の敵を撃破することになります。

そしてその後、敵軍を突破した左翼の軍団がすぐに敵陣の後ろへと回り込んで全軍を挟み撃ちにすることによって、

ギリシア世界最強と謳われたスパルタの重装歩兵を含むペロポネソス同盟軍に対して、エパミノンダスが率いるテーバイ軍を中心とボイオティア同盟軍が圧倒的な勝利をおさめることになったと考えられることになるのです。

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テーバイの台頭とレウクトラの戦いの大敗によるスパルタの覇権の終焉:第二回アッティカ海上同盟とボイオティアの統一 https://information-station.xyz/20351.html Sun, 21 Jun 2020 14:59:14 +0000 https://information-station.xyz/?p=20351 前回書いたように、ペロポネソス戦争の終結後に戦勝国であるスパルタがギリシア世界の覇権を一手に握ることになると、

それに対してアテナイアルゴスそしてテーバイコリントといったギリシアの諸都市が同盟を結んで対抗していくことによってコリント戦争が引き起こされることになります。

そして、こうしたコリント戦争における戦況は、ペルシアの支援を受けて艦隊の再建を果たしたアテナイの海軍スパルタの海軍を破ることによって、一時はスパルタの不利へと傾いていくことになるのですが、

その後、スパルタの使節であったアンタルキダスの画策とそれを採用したペルシアの大王の意向によって締結された大王の和約によってコリント戦争が終結することになると、ギリシア世界では再びスパルタの勢力が強まっていくことになります。

大王の和約によるスパルタの覇権の維持と同盟諸都市の分離

2020.6.21①、レウクトラの戦いとテーバイとスパルタのギリシア世界の覇権をめぐる争い

紀元前386年に結ばれることになった大王の和約あるいはアンタルキダスの和約と呼ばれる条約によってコリント戦争が終結することになると、

ペルシアの大王であるアルタクセルクセス2世と共にこの和約の締結を主導することになったスパルタは、和約において定められることになったギリシアにおける都市国家の独立と自治を守ることを名目としてアテナイテーバイといったスパルタに敵対する同盟諸都市の分離を図っていくことになります。

そして、こうしたペルシアとスパルタによって主導された同盟諸都市の離間政策により、ギリシア世界においては、しばらくのあいだスパルタの覇権が続いていくことになるのです。

海軍大国としてのアテナイの復活とテーバイの台頭

しかしその一方で、こうした10年間におよぶコリント戦争の期間には、ペルシアからの支援や同盟諸都市との共闘を経ていくなかでスパルタ以外のギリシア諸都市も勢力を大きく増大させていくことになり、

ペロポネソス戦争での敗戦によって一時は壊滅的な状態にまで衰退していくことになったアテナイは、こうしたコリント戦争を経ていくなかで国力を大きく回復させていくことになります。

そしてその後、アテナイは、コリント戦争が終結してから8年後にあたる紀元前377年第二回アッティカ海上同盟と呼ばれる経済的および軍事的な同盟をエーゲ海周辺の有力諸都市と結んでいくことになるのですが、

この同盟関係においては、ギリシア諸都市の独立と自治が尊重されることによって、かつてのデロス同盟の時のようにアテナイへの権力の一局的な集中や同盟加盟都市からの貢納金の取り立てによる支配体制の強化が行われることはなかったものの、

アテナイは、こうした第二回アッティカ海上同盟と呼ばれる第一回の同盟にあたるデロス同盟に続く二回目の海上同盟を結ぶことによってギリシア世界における海軍大国としての復活を果たすことになります。

また、その一方で、アテナイが位置するアッティカ半島の北西に位置する都市国家であったテーバイでは、

貴族として生まれながらピュタゴラスの哲学にも精通した民主派の政治家にして将軍でもあったエパミノンダスペロピダスの主導によって、スパルタの影響下において政治を運営していた寡頭派が駆逐されたのち、

ギリシア中部にあたるボイオティア地方の統一を進めていくことによって、大きく勢力を拡大していくことになるのです。

レウクトラの戦いの大敗によるスパルタの覇権の終焉

そして、こうしたテーバイによるボイオティアの諸都市の統一の動きを都市国家同士の独立と自治を尊重することが定められた大王の和約に反する違反行為とみなしたスパルタはテーバイの征討へと乗り出していくことになり、

紀元前379年、スパルタの王であったクレオンブロトス1世が率いるスパルタの軍勢がテーバイの遠征へと向けて出陣することになります。

そしてその後、こうしたスパルタとテーバイの両軍による抗争が数年にわたって続いていくことになるのですが、そうしたなか、ついに、

紀元前371年に起きたレウクトラの戦いにおいて、クレオンブロトス1世が率いるスパルタを盟主とするペロポネソス同盟軍と、テーバイを盟主とするボイオティア同盟軍がギリシアの覇権をめぐって激突することになります。

そして、レウクトラの戦いにおいては、テーバイの名将エパミノンダスが考案したとされている斜線陣と呼ばれる新たな戦術を用いて、

自軍の左側に主戦力を配置したうえで右側に位置する軍団ほど戦場への突撃を遅らせる一種の時間差攻撃による斜線状の陣形を構築することによって、

ギリシアにおける無敵の陸軍としての呼び声の高かったスパルタの重装歩兵の軍団をテーバイ軍が撃破することによってスパルタ軍の側が大敗を喫することになります。

そして、こうしたレウクトラの戦いにおけるスパルタの大敗によって、ギリシア世界におけるスパルタの覇権は終焉を迎えることになり、スパルタに代わって今度はテーバイがギリシア世界における新たな覇者としてしばらくのあいだ君臨していくことになるのです。

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コリント戦争におけるペルシア帝国の暗躍と大王の和約:イオニアのギリシア人諸都市をペルシアへと売り渡す屈辱的な条約内容 https://information-station.xyz/20343.html Sat, 20 Jun 2020 14:59:29 +0000 https://information-station.xyz/?p=20343 前回書いたように、ペロポネソス戦争の終結後にギリシア世界における覇権を一手に握ることになったスパルタは、さらな野望を抱いて東方のペルシア遠征へと乗り出していくことになるのですが、

こうしたスパルタの王アゲシラオス2世によるペルシア遠征は、知略に長けた宰相であったティトラウステスを中心とするペルシア側からの画策もあってギリシア本国においてコリント戦争がはじまることによって撤退を余儀なくされることになります。

スパルタの覇権への同盟諸都市の反抗とコリント戦争という呼び名の由来

紀元前404年アテナイの無条件降伏によってペロポネソス戦争が終結したのち、戦勝国となったスパルタは、敗戦国となったアテナイを含むギリシアの各都市にハルモステスと呼ばれる調停者を派遣することなどによってギリシア世界全体への間接的な支配を強めていくことになるのですが、

こうしたギリシア世界全体への自らの支配と影響力を強めていくスパルタの覇権主義に対しては、アテナイアルゴスといったもともとスパルタと敵対関係にあった都市国家だけではなく、テーバイコリントといったスパルタと同盟関係にあった都市国家においても反感が高まっていくことになります。

そしてその後、紀元前395年にはじまったコリント戦争においては、スパルタテーバイとの間で起きた国境争いをめぐる小さな紛争から端を発して、

アテナイアルゴスそしてテーバイコリントを中心とするギリシアの諸都市が同盟を結んでスパルタの覇権に対して反抗する戦いを挑んでいくことになります。

そして、こうしたアテナイやテーバイを中心とする同盟諸都市とスパルタとの戦いにおいては、ペロポネソス戦争ではスパルタの同盟者として共に戦っていたペロポネソス同盟の主軸国の一つであったコリントもスパルタに対して反旗を翻していくことになり、

その後のギリシア本土における陸上戦においては、コリントを中心とする地域において大規模な会戦が行われることになったため、

こうしたスパルタとその覇権に対抗する同盟諸都市との一連の戦いのことを指して、この都市国家の名をとってコリント戦争、または、その古代ギリシア語での発音にあたるコリントス戦争と呼ばれることになったと考えられることになるのです。

コリント戦争におけるアテナイ海軍の復活とペルシア帝国の暗躍

そして、こうしたコリント戦争と呼ばれる戦いにおいては、スパルタの覇権の拡大によってその勢力が東方のペルシアの支配領域にまでおよぶことを恐れたアケメネス朝ペルシアギリシア世界の分裂を画策することによって、

ペロポネソス戦争において敵対していたアテナイを中心とする同盟諸都市に対して大規模な経済的および軍事的支援を行っていくことになります。

そしてその後、陸上の戦いにおいては、ギリシア世界のなかでも最強の重装歩兵の軍団を率いるスパルタが優勢に戦いを進めていくことになるのですが、

ペルシアから提供された莫大な資金によってペロポネソス戦争の際にスパルタに破壊されていた城壁を再建して海軍の再建まで果たすことになったアテナイは、一時はペルシア艦隊まで借りることによってスパルタ海軍を破ることに成功することになります。

そして、海上の戦いにおいて、こうしたペルシアの支援を受けたアテナイを中心とする同盟諸都市の攻勢を受けることによってエーゲ海の制海権を失うことになったスパルタは徐々に苦戦を強いられていくことになるのです。

大王の和約によるコリント戦争の終結と屈辱的な条約内容

そしてその一方で、かつての宿敵であったペルシアからの援助を受けて再びエーゲ海の覇者として返り咲くことになったアテナイの海軍が東方のイオニア地方の沿岸にまで活動を広げていくことになると、

ペルシア帝国は、今度は、スパルタのギリシア世界における覇権の拡大よりも、そうしたエーゲ海におけるアテナイの影響力の拡大の方をより強く警戒していくことになります。

そして、こうしたペルシア側の情勢の変化をいち早く察知したスパルタの将軍であったアンタルキダスは、自らペルシアへの使節として王都スサへと赴いてペルシアの大王であったアルタクセルクセス2世との交渉へと乗り出していくことになります。

そして、こうしたスパルタからの要請を受けてペルシアの大王であるアルタクセルクセス2世の呼びかけによってギリシア諸都市を集めた和平会議が開かれることになると、

この会議において、アテナイテーバイといったギリシアの諸都市は、スパルタの使節であったアンタルキダスの画策とそれを採用したペルシアの大王の意向によって締結された条約を受け入れることによってコリント戦争は終結を迎えることになったので、

この条約はその締結の発案者となったスパルタの将軍の名をとってアンタルキダスの和約と呼ばれると同時に、それがペルシアの大王の意向を大きく取り入れられた条約内容であったことから大王の和約とも呼ばれていくことになります。

そして、こうした紀元前386年に結ばれることになった大王の和約あるいはアンタルキダスの和約と呼ばれる条約においては、アケメネス朝ペルシアがスパルタやアテナイといったギリシアにおける都市国家の独立と自治を承認して戦争は終結を導いた代わりに、

アナトリア半島とイオニア地方に位置するギリシア人諸都市を含むすべての都市国家ペルシア帝国の支配のもとに服することが認められることになります。

つまり、そういった意味では、こうしたスパルタとペルシア帝国の主導によって結ばれた大王の和約の締結によるコリント戦争の終結においては、

ギリシア世界にもたらされることになった一時の平和の代償として、事実上、イオニア地方におけるギリシア人諸都市をペルシアへと売り渡すことになるというリシア側にとっては屈辱的な条約が結ばれることになったと考えられることになるのです。

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