生命とは光なのか闇なのか?『風の谷のナウシカ』における輝く闇としての生命のあり方

前回書いたように、漫画版の『風の谷のナウシカ』の最終章に近い場面においては、現在の世界を創り上げた創造主である旧世界の人類の影たちとナウシカとの間で、生命の光と闇をめぐる激しい議論の応酬が繰り広げられていくことになります。

そして、そうした一連の議論のなかで、

墓所の主である旧世界の影たちは、現在の世界の犠牲を礎としたうえで、青き清浄の地を築き上げていく永遠の計画を打ち立てた自分こそは、

「暗黒の中の唯一残された光」であり、命とは、そうしたあらゆる暗黒と虚無を打ち払う存在、すなわち、「生命とは光である」と語ることになりますが、

それに対して、ナウシカは、

生命の「いたわりと友愛は虚無の深淵から生まれる」ように、それは光だけではなく闇とも切り離せない関係にある存在であり、「いのちとは闇の中でまたたく光である」と語り直していくことになります。

それでは、

こうした旧世界の影たちとナウシカとの問答の場面においては、生命と光と闇とはどのような関係にある存在として捉えられていると考えられることになるのでしょうか?

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旧世界の影たちが語る「純粋な光としての生命」とナウシカが語る「闇の中でまたたく光としての生命」の違い

まず、

こうした旧世界の人類の影とナウシカとの形而上学的な問答の場面においては、一言でいうと、

旧世界の影たちが、生命や世界のあるべき理想の姿を純粋な光や、汚れのない純然たる清浄さといった一面的な概念でのみ捉えているのに対して、

ナウシカは、そうした光と闇の両者が合わさった中で生まれる「闇の中でまたたく光」のような存在こそが生命の本質であると捉えていると考えられることになります。

それでは、

こうした旧世界の影たちが語る純粋な光としての生命のあり方と、ナウシカが語る闇の中でまたたく光としての生命のあり方とは、より具体的には互いにどのような点で異なっていると考えられることになるのか?ということについてですが、

それについては、こうした旧世界の影たちとナウシカとの間の問答のにおいて出てくる別の議論とも合わせて読み解いていくことで、その具体的な意味がより明らかになっていくと考えられることになります。

ちなみに、

こうした墓所の主である旧世界の人類の影たちは、旧世界における最高峰の文明の技術によって不老不死の人造人間へと作り変えられた存在でもあるため、ヒドラという名でも呼ばれているのですがが、

そうした不死の生命体でもあるヒドラとも呼ばれる旧世界の人類の影たちとの問答の中の別の場面において、ナウシカは、以下のようにも語っています。

・・・

「私達の身体が人工で作り変えられていても、私達の生命は私達のものだ生命は生命の力で生きている。」…

生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も、草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう。だがお前は変われない組み込まれた予定があるだけだ死を否定しているから。」

(『風の谷のナウシカ』第七巻、198ページ。)

・・・

そして、さらに、ナウシカは、生命の本質的なあり方を洞察していくなかで、それは以下のようなものであるとも語っていくことになります。

・・・

「絶望の時代に理想と使命感からお前がつくられたことは疑わない。その人達はなぜ気づかなかったのだろう。清浄と汚濁こそが生命だということに。」

「苦しみや悲劇や愚かさは清浄な世界でもなくなりはしない。それは人間の一部だからだからこそ苦界にあっても喜びやかがやきもまたあるのに。」

あわれなヒドラお前だって生き物なのに。浄化の神としてつくられたために生きるとは何か知ることもなく最も醜い者になってしまった。」

(『風の谷のナウシカ』第七巻、200ページ。)

・・・

つまり、

こうした漫画版の『風の谷のナウシカ』の最終章において、ナウシカと旧世界の影たちとの間でくり広げられてい生命に関する議論の一連の記述全体を読み解いていくと、

ナウシカは、そうした光と闇生と死清浄と汚濁といった対立する概念同士が互いに混ざり合い、渾然一体となることによって生じる、光と闇の両者を超越した存在として、深淵なる生命のあり方を捉えていると考えられることになるのです。

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光と闇の両方の性質をあわせ持つ輝く闇としての生命の姿

生命とは、それだけでは無から生まれて無へと引き去られていくだけの何の意味も持たない存在に過ぎない宇宙の内において、自らの意志を持ち、

そうした意識や自我に基づいて自由に能動的に活動することによって、宇宙の内に目的と意味を創造していくことができる存在であるという点においては、

それは、旧世界の影たちが語っていたように、暗黒の宇宙を照らし出す光であると考えられることになるのですが、

その一方で、

そうした宇宙のすべて、そして、生命自身の姿までもが、そうした理性の光によって隈なく照らし出され、その光が個々の人間や生物自身にとって一切の選択の余地がなくなってしまうほどに強くなり過ぎてしまうと、

生命は自らの本分である意志と自由を失ってしまうことになるので、

そのような闇の余地を一切許さない純然たる光としての光は、もはや、光としての本来の価値を失った偽りの光へと堕落してしまうことになるとも考えられることになります。

つまり、

生命の光は、闇の内にあってはじめて輝くことができ、自らの内にも闇を飲み込んでいくことによって、さらにその輝き増していくことなるというように、

生命という存在が成立するためには、生と死の両方が備わっていることが必要であるのと同様に、生命にとっては、清浄と汚濁、あるいは、光と闇といった存在も、両方とも切り離すことのできない互いに不可分な存在であり、

そういう意味では、

生命とは、光と闇の両方の性質をあわせ持つというある意味では矛盾をはらんだ存在、すなわち、輝く闇とでも言うべき存在として捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:巨神兵とは何か?①『風の谷のナウシカ』の映画版と漫画版における巨神兵の位置づけのあり方の違い

前回記事:偽りの光を亡ぼす闇の子としてのナウシカの姿と、「闇の中でまたたく光」としてのナウシカが語る生命のあり方

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