「日出づる処の天子」とは誰か?②用明天皇から推古天皇と聖徳太子へと続く朝廷における崇仏派の系譜と三者一体の解釈

前回書いたように、

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書の文言のなかで言及されている「日出づる処の天子」に該当する可能性のある具体的な人物の名としては、

推古天皇崇峻天皇用明天皇聖徳太子という全部で四人の天皇と皇太子の名を挙げることができると考えられることになります。

それでは、こうした四者のうち、直接的にはいったい誰のことを指して「日出づる処の天子」という言葉が用いられていると捉えるのが最も妥当な解釈であると考えられるのか?ということについてですが、

それについては、こうした国書が隋の煬帝へと送られた当時の日本の朝廷の内部における崇仏派と廃仏派の対立と抗争の流れを追っていくことが重要な要素となっていくことになると考えられることになります。

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用明天皇から推古天皇と聖徳太子へと続く朝廷における崇仏派の系譜

前回の記事でも書いたように、

隋の煬帝のもとへと遣隋使が派遣された推古天皇による治世の時代よりも少し前の時代の日本は、わずか数年の間に、用明天皇崇峻天皇の二代に渡って天皇の崩御が相次ぐという政治的な混乱期にあったと考えられることになるのですが、

こうした政治的混乱の背景には、仏教の受容と中国や朝鮮からの大陸文化の国内への導入を巡って繰り広げられた、

それを肯定して推進しようとする崇仏派(すうぶつは)であった蘇我氏(そがし)と、それを拒否して排斥しようとする廃仏派(はいぶつは)であった物部氏(もののべし)という朝廷を支える有力豪族同士の間の大規模な対立と抗争があったと考えられることになります。

そして、

こうした有力豪族同士の政治抗争は、結局、崇仏派である蘇我氏の勝利に終わることになるのですが、

それと呼応して行く形で、天皇家や皇族においても崇仏派の台頭が広くみられていくことになり、

廃仏派であった敏達天皇(びだつてんのう)が崩御したのちに即位した用明天皇(ようめいてんのう)による治世のもとで、日本においては仏教の興隆大陸文化の導入が広く進められていくことになります。

しかし、

585年に即位した用明天皇は、病に倒れることによって、そのわずか2年後の587年に崩御してしまい、

その次の代の天皇には、用明天皇の異母弟であった崇峻天皇(すしゅんてんのう)が即位したものの、政治の実権を握っていた蘇我氏との対立が進むことによって、

即位してからわずか5年後の592、崇峻天皇は、蘇我馬子(そがのうまこ)を筆頭とする朝廷の多数派を占める勢力によるクーデターによって暗殺されてしまうことになります。

そして、今度は、

その次の代の天皇として、用明天皇と父も母も同じくする実の妹であった推古天皇が、新たに日本最初の女性天皇として即位することになり、

さらに、用明天皇の息子であった聖徳太子を推古天皇の摂政とすることによって、崇仏派を中心とする安定した政治体制が築かれていくことになったと考えられることになるのですが、

このように、

こうした6世紀末から7世紀初頭にかけての日本においては、

崇仏派と廃仏派の間の大規模な政治抗争と、崇峻天皇の暗殺によって動揺と混乱が広がる朝廷における政治体制の安定化を図るために、

女性天皇である推古天皇を名代として立てることによって、皇族や朝廷に仕える貴族全体の融和を図り、豪族の側では蘇我馬子が中心となって朝廷を支えたうえで、

推古天皇聖徳太子といった朝廷内における用明天皇系の崇仏派の勢力が盤石の態勢を築いた段階において、

推古天皇の次代の天皇として、用明天皇の息子である聖徳太子が即位するという明確な計画のもとに、政治運営が進められていったと考えられることになるのです。

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用明天皇と推古天皇と聖徳太子の三者が一体となる形で記された「日出づる処の天子」という国書の文言の解釈

以上のように、

推古天皇の治世の時代である607に、小野妹子を使者として遣隋使が派遣されることになった背景には、

こうした用明天皇から推古天皇そして聖徳太子へと続く、朝廷と皇室における崇仏派の系譜が存在したと考えられることになるのですが、

そうすると、

冒頭で挙げた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という隋の煬帝へと宛てられた国書の文言についても、

それは、用明天皇の息子であった聖徳太子が、亡き父である用明天皇の遺志を引き継いだうえで、その名代である叔母の推古天皇の実質的な政務を代行していくという形で起草された文言であったと考えられることになるので、

そういった意味では、

中国側の史料である『新唐書』の記述にもあるように、こうした「日出づる処の天子」という表現は、直接的には、こうした崇仏派の天皇の系譜の大本に位置している用明天皇のことを指して用いられていると解釈するのが、最も妥当な解釈のあり方であると考えられることになります。

また、別の見方をするならば、

こうした国書における文言が、

亡き父である用明天皇に成り代わり、叔母である推古天皇を名代として立てたうえで、次の代の天皇としての地位を確立して朝廷における政務の実権を握っていた聖徳太子によって起草された言葉であると考えられるということは、

こうした「日出づる処の天子」という国書の文言は、

直接的には用明天皇のことを指しているものの、現実的には推古天皇がそうした天皇の位についていて、実質的には摂政である聖徳太子が推古天皇に代わって政治を執り行っているという

言わば、

用明天皇と推古天皇そして聖徳太子の三者が一体となる形で記された文言であったとも解釈することができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:隋の煬帝は「日出づる処の天子」という言葉になぜ怒ったのか?辺境の小国の王が中国の皇帝と同じ天子を僭称することの問題

前回記事:「日出づる処の天子」とは誰か?①候補となる四人の人物の名前とは?『隋書』における倭王多利思比孤の記述との関係性

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