「塞翁が馬」とは何か?古代中国の哲学書である淮南子に記されている物事の表面的な禍福に囚われない泰然自若とした生き方

人間が住んでいる世の中人生において禍と福幸と不幸良いことと悪いことが転々として予測できないことを指して、

「人間万事塞翁が馬」、あるいは、「人生万事塞翁が馬」といった言葉が用いられることがありますが、

こうした「塞翁が馬」という故事は、もともと、古代中国哲学書である淮南子(えなんじ)において記述がなされている説話や人生訓の一種であり、

この淮南子と呼ばれる書物においては、老子や荘子に代表される道家思想や老荘思想につながるような思想が示されていくなかで、

そうした古代中国における哲学思想の具体的なあり方を示す一例として、「塞翁が馬」の話が語られていると考えられることになるのです。

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淮南子の「人間訓」における「塞翁が馬」の具体的な記述

そもそも、

「塞翁が馬」の故事が語られている淮南子(呉音では「えなんじ」、漢音では「わいなんし」)と呼ばれる書物は、

紀元前2世紀頃前漢の武帝の時代に、前漢の初代皇帝である劉邦(りゅうほう)の孫にあたる劉安(りゅうあん)と、そのもとに集まった学者たちの手によって編纂された道家的色彩の強い思想書であり、

編纂者である劉安が、中国東部の淮河(わいが)と長江の間に位置する淮南(わいなん)の地を領する淮南王であったことから、その称号の名を冠して、この書物が淮南子と呼ばれるようになっていったと考えられることになります。

そして、

「塞翁が馬」という故事については、こうした古代中国の前漢の時代の思想書である淮南子』第十八巻「人間訓」において具体的な記述がなされているのですが、

こうした淮南子「人間訓」における「塞翁が馬」の記述を、なるべく原文における記述に沿った形で書いていくと、それは以下のようになります。

・・・

辺境の塞(砦)の近くに、占筮(占い)の術に巧みな人がいた。
ある時、その人の馬が何の故もなく逃げてしまい、その馬は胡(こ)の国(北方の異民族の地)へと入った。

周りの人々がみな、そのことを弔い(慰め)に来ると、その父(=塞翁)は、
「これがどうして福とならないことがあるだろうか?」と言った。

ところが、数月たつと、その馬は、
胡の国の駿馬を引き連れて番いになって帰ってきた

周りの人々がみな、そのことを賀し(祝い)に来ると、その父は、
「これがどうして禍(災い)とならないことがあるだろうか?」と言った。

やがて、その家が良馬に富むようになると、その子(=塞翁の息子)は騎馬を好むようになり、ある時、馬から落ちて、その髀(太ももの骨)を折ってしまった

周りの人々がみな、そのことを弔い(慰め)に来ると、その父は、
「これがどうして福とならないことがあるだろうか?」と言った。

その後、一年たつと、胡の国の人が大挙して塞へと攻め寄せてきた
壮丁者(成年に達した男子)はみな弦(弓)を引いて戦うことになり、
塞の近くに住む人の十人に九人は死んだが、
この子は跛(足が不自由であること)の故に、父子共に無事であった

故に、福が禍となり禍が福となることは、
その変化を極め尽くすこともできないし、
その深さを測り知ることもできないのである。

(『淮南子』第十八巻「人間訓」)

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一つ一つの出来事の表面的な禍福に囚われない泰然自若とした生き方

以上のように、

こうした淮南子「人間訓」における「塞翁が馬」の記述においては、

古代中国の北方辺境の(砦)の近くに住んでいた(老人)である塞翁とその家の人々の身に交互に訪れることになった、禍と福災いと幸運の出来事が記されていて、

災いであるはずのことから福が生まれ福であったはずのことが原因となって新たな災いがもたらされることになるという数奇な人生の流れが示されていると考えられることになるのですが、

こうした塞翁がたどることになった数奇な人生の流れの中では、

周りの一般の人々は、そうした塞翁の人生における禍と福を織りなす出来事の一つ一つに囚われて一喜一憂しているのに対して、

占筮(占い)の術に秀でた賢者であった塞翁自身は、そうした人間における人生の流れ全体を見通したうえで

その中で現れる個々の出来事表面上の禍福には動じずに、

常に落ち着いたニュートラルな心の状態で、日々の出来事に対処するという生き方をしていると考えられることになります。

ちなみに、

『淮南子』の「人間訓」の章の冒頭部分においては、

禍が来るというのも福が来るというのも、すべては人間が自ら作り出すことである。禍と福とは同じ門から入り利と害とは隣同士にあるのであるから、聖人でなければこれを区別することはできない。」

という言葉が記されているのですが、

そういう意味では、まさに、『淮南子』においては、

そもそも、こうした禍と福災いと幸運といった概念自体が、人間の心が生み出した幻影のような存在であって、両者は互いに不可分は表裏一体の関係にあり、

そうした人生における一つ一つの出来事の表面的な禍福に囚われずに、常に泰然自若とした心境を保ち続けていくという、人間における理想的な生き方の一例として、

こうした「塞翁が馬」のたとえが記されていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:「人間万事塞翁が馬」は「にんげん」と「じんかん」のどちらの読み方が正しいのか?呉音と漢音における意味と発音の違い

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