古代中国の歴代王朝における儒教の位置づけのあり方の違い②曹操の唯才の思想と新における儒教の教義に基づく復古主義的改革

前回書いたように、儒教は、中国全土を統一した最初の王朝である秦の始皇帝の時代においては、焚書坑儒と呼ばれるような厳しい弾圧の対象とされることによって、迫害されていたと考えられることになるのですが、

それに対して、

秦の滅亡後に劉邦によって建国され、その後の400年の長きにわたって中国全土を統治していくことになる漢王朝においては、それまでの秦王朝とは打って変わって、儒教は長く続く王朝による統治の正当性を根拠づけ、治世の安定化をもたらす道徳思想として重視され、官学とされるようになっていきます。

そして、

こうした古代中国の歴代王朝における儒教の位置づけのあり方は、その後の前漢の末期の時代から、王莽による新の建国、そしてその後の後漢の時代において、さらなる変遷をとげていくことになると考えられることになります。

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王莽による儒教を利用した帝位の簒奪と復古主義的な改革による失政

冒頭でも述べたように、

漢王朝においては、儒学は官学として位置づけられたうえで、儒教の教義に基づいて皇帝の権威の正当化中央集権体制の強化がはかられていくことになるのですが、

こうした漢王朝における儒教勢力の拡大は、徐々に、皇帝の権力と求心力の増大だけにはとどまらずに、そうした儒教の教義を解釈する儒学者自体の政治介入を招くようになっていき、

さらには、そうした儒学の教義を利用して政権の中枢で自らの勢力を拡大していく皇帝の周りにはびこる外戚や宦官たちの台頭へとつながっていくことになります。

そして、このような儒学と漢王朝を取り巻く情勢の変化に応じて、

前漢の末期においては、12代皇帝である成帝の母方の親族、すなわち、外戚にあたる王莽(おうもう)の手によって、

儒教の名のもとに自分自身への権力の集中化と、王氏一族による冠位の独占による権力の私物化を進めらていくことになります。

ところで、

儒教が理想とする古の時代の統治のあり方としては、中国神話における伝説上の帝王である三皇五帝の中でも、

特に、尭と舜という二人の聖君の名がその最も理想とすべき代表的な存在として位置づけられていて、

こうした尭や舜といった伝説上の古代の聖君たちの治世の時代には、国を統治する皇帝の地位の継承は、世襲ではなく、それぞれの時代の皇帝が有徳の人へと自ら帝位を譲り渡すという禅譲によって行われていたとされているのですが、

王莽は、最終的に、こうした儒教における禅譲の精神を利用する事によって、前漢の最後の皇太子であった劉嬰(りゅうえい)に対して、有徳の士であることを自称する自分自身への帝位の禅譲をせまることによって、

西暦8、新たに王莽自らが皇帝として統治を行う新という名前の王朝の建国を行うことによって、漢王朝の一時的な断絶を引き起こしていしまうことになるのです。

そして、

王莽は、自らが皇帝となったのちも、儒教を政治の中心に位置づけたうえで、儒教の教えに基づく大規模な政治改革を進めていこうとすることになるのですが、

こうした王莽が理想とする儒教の教義を中心とする新たな政治改革においては、現実の政治情勢をまったく無視してしまう形で、

古い政治制度の復活や、古式の貨幣の乱発、さらには、近隣諸国や異民族を下賤な人々として貶める外交的非礼などの失政が重ねられていくことになります。

そして、

そうした儒教思想に基づく現実にそぐわない復古主義的な政治改革によって引き起こされた帝国の内外における政治的・経済的混乱からは、

さらに、匈奴や高句麗などの周辺諸国の離反や、国内における赤眉の乱などの大規模な農民反乱が引き起こされて収拾不能の状態へと陥ってしまうことになり、

王莽が建国した新の王朝は、わずか15年の短さで、滅亡の時を迎えてしまうことになるのです。

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後漢における儒教と現実的な政治体制の両立と魏の曹操による唯才是挙

そして、その後、

漢王室の血筋をひく劉秀(りゅうしゅう)の手によって国内における反乱の平定帝国の再統一が実現され、

西暦25、そうした漢の正統な後継者である劉秀が光武帝として即位することによって、漢王朝は後漢として再興していくことになるのですが、

こうした後漢の時代の初期の頃の治世においては、前漢においてすでに機能していた現実的な官僚制度と、王莽が理想としたような儒教的な政治秩序両立がはかられていくことによって、

漢王朝が支配する帝国に、再び中央集権的な政治体制に基づく安定した統治をもたす政治的基盤が築かれていくことになります。

しかし、

こうした後漢の時代に至っても、時代が進んで行くと、儒学者たちの政治への介入と、そうした儒教勢力を利用することによって自らの権勢を強めていく宦官たちの勢力の拡大は徐々にとどめることができないところまで進んでいってしまうことになり、

せっかく光武帝の手によって再興された後漢も、最終的には、そうした宦官たちによる権力の私物化と、それに伴う腐敗政治の進展による帝国の内外における国力の弱体化によって、西暦220滅亡の時を迎えてしまうことになるのです。

ちなみに、

前漢の滅亡が新を建国した王莽への帝位の禅譲によってもたらされたのと同様に、

後漢の滅亡も、漢王朝が帝国領土の実質的な支配権を失ったのちの三国時代を制した魏の国の二代目の王である曹丕(そうひ)に帝位を譲るという禅譲によって幕が引かれることになるのですが、

そうした魏の国を建国した始祖である曹操(そうそう)は、後漢を滅ぼすことになるちょうど十年前の西暦210に、自らが理想とする新たな国を作り上げるために必要な有能な人材を中国全土から広く集めるために、

求賢令(きゅうけんれい)と呼ばれる人材登用を奨励する法令を新たに発布することになります。

そして、こうした求賢令の中では、

「唯才是挙」(ただ才のみ是れ挙げよ)と記されていて、

家柄や品行、それまでの学業などの履歴といった過去のしがらみは一切問わずに、現実の政治や新たな国家の建設に役立つ有用な人材を求めるという能力主義的な人材の登用が進められていくことになるのですが、

こうした魏の曹操における唯才の思想の内には、それまでの漢王朝における旧態依然とした儒教的な権威主義には必ずしも基づかない新しい政治思想のあり方を読み取ることができると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

秦の始皇帝の時代から前漢、そして、後漢からさらにへと続く古代中国の歴代王朝においては、儒教の位置づけのあり方に大きな違いが見られていくことになり、

こうしたそれぞれの歴代王朝における儒教と政権の関係のあり方について、一言でまとめると、

秦の始皇帝や、魏の曹操といったそれまでの既存の政治体制を壊して自らの手で新しい秩序を打ち立てていく新たな王朝の黎明期においては、

君臣や長幼の序列といったそれまでの既存の秩序を重視し、常に古代の理想的な政治体制へと立ち返ろうとうとする儒教勢力は、新たなより優れた政治体制の構築の妨げとなる抵抗勢力として否定される傾向にあったと考えられることになるのに対して、

前漢後漢という中国史において最も長く存続した王朝、あるいは、その漢王朝の断絶期にあたるといった王朝においては、

むしろ、そうした古典的な儒教の権威を利用して治世の安定化がはかられていくことになり、既存の秩序を重んじる儒教の教義のあり方は、皇帝の権威の正当性や求心力を高める道徳思想として肯定される傾向にあったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:唯才是挙とは何か?曹操が目指した理想の世界のかたちと才と徳そして学問と道徳を分離して捉える新たな知の基準

前回記事:古代中国の歴代王朝における儒教の位置づけのあり方の違い①秦の始皇帝による焚書坑儒と前漢の武帝による儒教の官学化

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