秦と漢の最大版図の大きさの比較と武帝による匈奴討伐と西域への領土拡大、秦と漢帝国はどちらの方が大きかったのか?②

前回書いたように、高祖による建国当初の漢帝国においては、冒頓単于が率いる匈奴の騎馬軍団に対する敗北によって国境の北辺の領域が失われ、南方においては南越国などの辺境の諸国が自立化していくなど、

それ以前の始皇帝の時代の秦最大版図と比べて、支配領域が一回りくらい小さい範囲へと退縮してしまっていたと考えられることになります。

そして、

こうした帝国の支配領域の後退局面に対する大きな転機が訪れ、王莽による帝位の簒奪と新の建国による断絶以前の漢、すなわち、前漢において最大版図が築かれていくことになるのは、

前漢の第7代皇帝である武帝による治世の時代であったと考えられることになります。

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前漢の武帝による匈奴の討伐と西域への支配領域の拡大

武帝の治世における前漢の支配領域の拡大(紀元前100年頃)

紀元前141に、前漢7代皇帝として即位した武帝は、国内においては儒教を公認して官学とすることで学問の育成教養ある人材の登用を進め、政治面における中央集権体制の強化を図っていくとともに、

軍事面においては、それまで漢帝国の北辺を脅かし続けてきた匈奴の討伐と、西域への進出を中心とする支配領域の拡大へと大きく舵を切っていくことになります。

武帝の治世の時代、匈奴の単于(ぜんう、君主、国王)は、漢の高祖の時代に匈奴の最盛期を築き上げていた冒頓単于(ぼくとつぜんう)と、その息子である老上単于(ろうじょうぜんう)の時代から、

冒頓単于の孫の代である軍臣単于(ぐんしんぜんう)の時代へと移り変わっていて、匈奴の内部においても、最盛期の頃よりは勢力の分立化が進むなど、その勢いには多少のかげりも見られるようになっていました。

そして、そのような情勢の中、

武帝は、まずは、匈奴よりもさらに西方に位置する大月氏(だいげっし)や烏孫(うそん)といった他の遊牧民族の勢力と同盟を結んで匈奴に対する挟撃体制を築くために、

紀元前140、皇帝に即位してまだ間もない時に、当時の前漢の外交官であった 騫(ちょうけん)使者として西域へと遣わして情勢を探索させていくことになります。

こうした西域への旅の途中では、張騫は匈奴によって捕縛されて十年にも渡り抑留されることになるなど、長期にわたる妨害にも遭い、

張騫を使者とした外交交渉は、結局のところ失敗に終わり、大月氏との同盟は結ばれないままに彼は帰途へとつき、西域へと出発してから14年後紀元前126年に漢へと帰還するとになるのですが、

こうした張騫の手によってもたらされた西域における様々な見聞をまとめた報告からは、匈奴の内部事情や西域についての具体的な情報が数多く得られることになり、

武帝は、こうした張騫によってもたらされた匈奴と西域についての情報をもとにして、匈奴の討伐西方への領土拡大を図っていくことになります。

そして、武帝の時代の前漢は、

衛青(えいせい)とその甥の霍去病(かくきょへい)の両将軍を中心とする数回に渡る匈奴討伐軍の遠征の末、

ついに、

紀元前119の遠征において、衛青霍去病の両将軍それぞれが率いる五万ずつ計十万の騎馬隊数十万の歩兵や輸送部隊などからなる最大の遠征軍によって黄河北方に位置していた匈奴の本拠地を襲撃して、この地から彼らの勢力を追い払うことに成功し、

それ以降、匈奴は、北方の砂漠地帯からさらに北の土地へと追いやられ、さらに勢力を分散させて弱めていきながら衰退へと向かっていくことになるのです。

そして、

黄河北辺から匈奴の勢力を駆逐することに成功した武帝は、この地に朔方郡(さくほうぐん)を置いて、さらにそこから西域へと支配領域の拡大を進めていき、

その後、酒泉(しゅせん)や、敦煌(とんこう)といった数多くの諸都市が、前漢の支配のもと、西域の各地に建設されていくことになります。

そして、その一方、

武帝の治世における前漢の領土拡大の動きは、こうした北方や西域の方面においてではなく、東方や南方にまで広がっていくことになり、

まず、

南方においては、紀元前111に、前漢の支配から脱して自立化していた南越国へと向けて遠征軍が放たれて滅ぼされると、

漢帝国の領土の拡大は、始皇帝の時代の秦の時代の支配領域を超えてベトナムの中部あたりまで及ぶようになり、

秦の時代にもすでに置かれていた南海郡のほかに、交趾郡(こうしぐん)、日南郡(にちなんぐん)などの行政区画が新たに設置されていくことになります。

また、

東方においては、紀元前108に前漢の武帝によって衛氏朝鮮が滅ぼされると、その後に、楽浪郡(らくろうぐん)、真番郡(しんばんぐん)、臨屯郡(りんとんぐん)、玄菟郡(げんばぐん)といった四郡が置かれ、

南東部を除く朝鮮半島の大部分の領域は、この時代においては、いったん漢帝国の支配領域の内へと組み込まれていくことになったと考えられることになるのです。

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秦と漢の最大版図の大きさの比較

秦と漢の最大版図の大きさの比較

以上のように、

前漢においては、7代皇帝である武帝による治世の時代において、大規模な領土と支配領域の拡大が進められていくことになり、

この時代には、匈奴の討伐西域への進出を通じて、黄河北方西域ベトナム北部や、朝鮮半島の北半といった広大な領域が新たに漢帝国の支配領域の内へと組み込まれていくことになったと考えられることになります。

つまり、

始皇帝の時代の秦漢帝国支配領域の大きさを比較においては、

建国当初の時代漢帝国の大きさは、始皇帝の時代の秦の大きさを一回り下回っていたと考えられることになるのですが、

そうした支配領域の大小関係は、武帝の治世における漢帝国の最盛期の時代において逆転していったと考えられることになり、

秦と漢の最大版図の大きさの比較すると、西域への領土の拡大を中心に、南方や東方といったほとんどあらゆる方面において、

漢帝国の最大版図の方が、始皇帝の時代の秦の最大版図を大きく上回る支配領域を手にするに至っていたと考えられることになるのです。

・・・

次回記事:王莽による新の建国と周辺諸国の離反と赤眉の乱による帝国の支配領域の衰退と縮小のあり方

前回記事:秦と漢帝国はどちらの方がどのくらい大きかったのか?①建国初期の漢帝国と始皇帝の時代の秦の支配領域の大きさの比較

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