ヘーゲルの国家論における三重の崩壊に基づく動的で有機的な国家の弁証法的展開の構造

前回書いたように、ヘーゲルの弁証法哲学に基づく社会観においては、

人間の自然的な結合関係である「家族」「市民社会」へと分裂し、両者の概念がより高次の段階にあたる「国家」の概念の内に統一されることによって、人間社会の弁証法的な展開が進んで行くことになると考えられることになります。

そして、こうした「家族」と「市民社会」と「国家」の三者の間の弁証法的な論理展開のあり方からは、

自らが常に崩壊の過程にありながら、そのなかにあって常に新たな統一と秩序を生み出して続けていく動的で有機的な国家観が導き出されていくことになると考えられることになります。

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三重の崩壊に基づく「国家」の弁証法的展開の構造

冒頭でも述べたように、ヘーゲル法の哲学において示されている弁証法的な社会観においては、

「家族」と「市民社会」という二つの概念は、「国家」の概念へとアウフヘーベンされることによって、互いに否定されると同時に、新たなより高次の段階における統一がもたらされることになるのですが、

それでは、そうした国家の概念の内へと統一されることによって解消されたはずの「家族」と「市民社会」という二つの概念の間の対立は、いったん「国家」という概念が成立してしまえばその後は一切現れることのない完全に解決した問題として切り捨ててしまうことができるのか?というと、必ずしもそういうわけではなく、

当たり前のことではありますが、ヘーゲル的な理念としての「国家」の概念が確立された後でも、そうした国家の内では、男女の間の婚姻、あるいは、夫婦の間に生まれる子供の誕生によって、常に新たな家族が生み出され

そうした国家の内で、貨幣を媒介とする自由な経済活動が営まれ続ける限り、そこでは、人々が新たな形で自らの欲求を自由に満たしていくという欲望の体系に根差した新たな形における市民社会も常に形成されていくことになると考えられることになります。

つまり、より正確に言えば、

「家族」と「市民社会」と「国家」の三者の間に成立する弁証法的な論理展開は、理念の世界において「国家」の概念へのアウフヘーベンが完了した後でも、

現実の世界における「家族」と「市民社会」から「国家」への弁証法的な展開の過程は終わることなく常にさらなる先へと進展し続けていて、

「家族」は自らの結合の一部を破綻させることによって「市民社会」へと労働力を提供し、「市民社会」は自らの自由の一部を放棄することによって「国家」による統制を受け入れ、「国家」は自らの統一の一部を崩壊させることによってその内部に新たな「家族」という自然的な結合を再生産するというように、

現実の世界における「家族」と「市民社会」と「国家」の三者の間には、それぞれの社会的な構造の一部が崩壊していくことによって、次なる構造を生み出していくという三重の崩壊と再生産の関係が成立していると考えられることになるのです。

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以上のように、

ヘーゲルの弁証法哲学に基づく国家観においては、

理念としての「国家」は、「家族」と「市民社会」という二つの概念の両者を否定すると同時に、それらの概念をより高次の段階において統一するアウフヘーベンと呼ばれる思考の働きによって確立されるのに対して、

現実の世界における「国家」は、そうした理念の世界におけるアウフヘーベンがなされた後も、常にその先の新たな段階へと向けた弁証法的展開を際限なく繰り返していくことになると考えられることになります。

そして、

そうした現実の世界における国家の弁証法的な発展の過程は、家族の崩壊が市民社会を生み出し、市民社会の崩壊から国家が形成され、国家の崩壊の内から新たな家族が生まれるという三重の崩壊の内に位置づけられることになると考えられることになるのですが、

そういう意味では、

ヘーゲルの弁証法哲学における「国家」とは、

現在の状態が完成された終着点ではなく、常にさらなる発展への過程として位置づけられる存在であり、

それは、常に崩壊の過程にありながら、その崩壊の内において新たなる発展の方向性を見いだし、自らを構成する人間全体の意志の力によって新たな秩序と統一を生み出し続けていく動的で有機的な存在であると捉えることができると考えられることになるのです。

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次回記事:ヘーゲルの歴史哲学における奴隷制から民主制への国家の弁証法的な発展の歴史

前回記事:「家族」と「市民社会」から「国家」へと向かう『法の哲学』におけるヘーゲルの弁証法のあり方とは?

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