存在論的証明と宇宙論的証明の違いとは?トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論②

前回書いたように、中世スコラ哲学の大成者として位置づけられる13世紀イタリア神学者および哲学者であるトマス・アクィナスは、

アンセルムスが提唱した神の存在論的証明と呼ばれる神の概念のみから神の実在性を論証する神の存在証明のあり方を、人間の知性にとっての適切な理解の範囲を超えた論証のあり方であるとして否定することになります。

そして、そのうえで、トマス・アクィナスは、自らの主著である『神学大全』のなかの「五つの道」と呼ばれる箇所において、一般的に、宇宙論的証明としてまとめられる神の実在性を論証するための一連の議論を提示していくことになるのですが、

こうしたアンセルムスの存在論的証明と、トマス・アクィナスの宇宙論的証明と呼ばれる神の存在証明のあり方には、それぞれ具体的に、どのような論証の方向性の違いがあると考えられることになるのでしょうか?

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ア・プリオリ(先験的)な神の存在証明としての存在論的証明

アンセルムスによる神の存在証明の記事で書いたように、アンセルムスの神の存在論的証明と呼ばれる論証の議論においては、

まず、

「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」として神を定義したうえで、

そのような神の概念についての論理的な分析と吟味を進めていくことによって、そうした概念を自らの本質とする神現実においても実在するという結論が導かれていくことになります。

そして、こうした論証のあり方は、

現実の世界における様々な経験的事実基づく実証を必要とせずに、自らの知性の内にある概念のみによって論証が進められていくという意味において、

経験的事実に依存することのない論証のあり方、すなわち、先験的(ア・プリオリ)な論証のあり方として捉えることができると考えられることになります。

つまり、

アンセルムスが提示したような存在論的証明と呼ばれる神の存在証明のあり方は、

それが、現実において観察されるいかなる経験的事実に基づくことも必要とせずに、概念のみの分析によって神の実在性を論証するという

ア・プリオリ(先験的)な証明であるという点に、その論証の方向性具体的な特徴があると考えられることになるのです。

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ア・ポステリオリ(経験的)な神の存在証明としての宇宙論的証明

しかし、こうしたアンセルムスによる神の存在論的証明の議論、すなわち、ア・プリオリな神の存在証明のあり方に対して、

トマス・アクィナスは、人間の不完全な知性によって、完全なる存在である神の本質を捉えることは不可能であると考えられることから、

アンセルムスの存在論的証明において見られるような神の本質についての概念的な定義のみによって神の実在性を論証することは不可能であるとしたうえで、

新たに、人間にとって理解可能な経験的事実の側から神の実在性を論証していく神の存在証明の議論を展開していくことになります。

そして、

トマス・アクィナスは、そうした現実において存在する様々な経験的事実のなかでも、特に、

世界に存在するあらゆる経験的事物運動の原因存在の起源をたどっていくことによって、そうした宇宙全体のあらゆる存在の根本原因となるものとしての神の実在性を論証しようとする宇宙論的証明と呼ばれる論証の議論を展開していくことになります。

そして、こうした論証のあり方は、

自らの知性の内にある概念の分析だけにとどまらずに、現実における様々な経験的事実の存在のあり方に基づいて論証が進められていくという意味において、

経験的事実に依存する論証のあり方、すなわち、経験的(ア・ポステリオリ)な論証のあり方として捉えることができると考えられることになります。

つまり、

トマス・アクィナスが提示した宇宙論的証明と呼ばれる神の存在証明のあり方は、

それが、経験的事実に基づく様々な推論の積み重ねによって神の実在性を論証するという

ア・ポステリオリ(経験的)な証明であるという点に、その論証の方向性具体的な特徴があると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

アンセルムスの存在論的証明と、トマス・アクィナスの宇宙論的証明における神の存在証明のあり方の違いとしては、

存在論的証明においては、経験的事実に依存することなく、概念のみの分析によって神の実在性を論証するというア・プリオリ(先験的)な論証が進められていくのに対して、

宇宙論的証明においては、経験的事実に依存したうえで、そうした経験的事実に基づく様々な論証の積み重ねによって神の実在性を論証するというア・ポステリオリ(経験的)な論証が進められていくという点に、

両者の論証のあり方における具体的な方向性の違いがあると考えられることになります。

・・・

そして、次回以降の記事で詳しく考察していくように、

トマス・アクィナスの主著である『神学大全』において提示されている「五つの道」と呼ばれる神の存在証明の議論においては、

基本的には、様々な経験的事実の側から神の実在性を論証していくというア・ポステリオリ(経験的)な論証という観点から、宇宙論的証明と呼ばれる神の存在証明の議論が展開されていくことになると考えられるのです。

・・・

次回記事:物体の運動に基づく神の存在証明、トマス・アクィナスの「第一の道」における神の存在証明の議論

前回記事:神における本質と存在の同一性に基づく神の実在の明証性、トマス・アクィナスによる神の存在証明の議論①

関連記事:ア・プリオリとア・ポステリオリのラテン語における意味の違い、ア・プリオリとは何か?①

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