神の存在論的証明を擁護するアンセルムスの再反論の議論①、人間の思考における概念についての二段階の理解のあり方とは?

前回書いたように、「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」という神の定義についての概念的な分析から、神の現実における存在自体を導き出そうとするアンセルムスの神の存在論的証明の議論に対しては、

アンセルムスと同時代の神学者であるガウロニによる反論の議論においてすでに見られるように、

現実において実際には存在しないはずの対象であったとしても、その対象を指し示す概念自体の分析の仕方次第では、いかようにも実在性の論証が行えてしまうという矛盾する論証のあり方であるとする批判が行われていくことになります。

そして、こうした神の存在論的証明に対する一般的な批判の議論に対して、

アンセルムスは、自らが提示した神の存在論的証明の議論を擁護するために、以下のような形で再反論の議論を提示していくことになります。

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「言葉のみを理解する段階」と「対象自体を理解する段階」という人間の思考における二段階の理解のあり方

アンセルムスが提示したような神の実在性の論証のあり方は、概念のみから対象の実在を導く誤謬推理であるとする同時代の神学者であるガウロニらによって提示された反論の議論に対して、

アンセルムスは、まずは、

何らかの対象となる概念を自らの頭の中で考えるというとき、その思考のあり方には、

「対象となる概念をそれが意味する言葉のみにおいて理解する段階」と、さらにその概念についての思考を深く進めていき、「概念によって対象自体を理解する段階」という二つの段階があると主張することになります。

つまり、

ある概念について、それを単に一度辞書などで調べて読んだことがあり、その概念の字義上の意味だけを言葉として暗記しているだけの状態と、

その概念について、様々な角度から調べ尽くし、長い時間をかけて自分の頭の中でこねくり回し続けて、その概念が自らの思想心の一部と言っていいほどにまで深く考え尽くされた場合とでは、

同じ概念であっても、その概念の理解のあり方の段階に大きな差があると考えられるということです。

そして、アンセルムスは、

こうした二つの段階のうちの前者の理解のあり方である字義上の理解にとどまる思考のあり方では、ガウロニが批判するように、神の存在論的証明の議論は、矛盾する論証へと陥ってしまうことになると考えられるものの、

神の概念についての深い洞察を通じて、概念によって対象自体を理解する段階へと到達した後者の理解のあり方においては、概念の分析に基づく神の実在性の論証の議論は矛盾なく成立するという観点から、

自分が述べた神の存在論的証明の議論を擁護するための再反論の議論を提示していくことになるのです。

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それでは、こうしたアンセルムスが主張する神の存在論的証明を擁護するための再反論の議論においては、

「概念によって対象自体を理解する」という第二段階のより深い理解のあり方へと人間の知性が到達することができた場合、

そこでは、具体的にどのような形で、存在論的証明における論証のあり方が神の概念に対してのみ適用されて、その他の現実には存在しないはずの想像上の架空の対象についての概念に対しては適用することができないということが示されていくことになるのでしょうか?

それについては、詳しくは、また次回改めて考察していくことにしますが、

こうした「概念によって対象自体を理解する」という第二段階へと達した思考においては、

「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」すなわち、知性や能力といったあらゆる属性において最も偉大で限りなく大きな存在であるという全知全能なる完全性を備えた存在として定義される神の概念は、

日常的な概念や、神話や小説における登場人物とはまったく異なる位置づけをもった特権的な概念として捉え直されていくことになるという観点から、神の存在論的証明を擁護する新たな議論が展開されていくことになると考えられるのです。

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次回記事:神の概念の特権性によって肯定される神の存在論的証明の議論、神の存在論的証明を擁護するアンセルムスの再反論の議論②

前回記事:神の存在論的証明の具体的な問題点とは?概念のみから対象の実在を導く誤謬推理としての批判、アンセルムスの神の存在証明④

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