哲学において「ア・プリオリ」を「生得的」と訳すのは間違いなのか?、ア・プリオリとは何か?⑤

前回書いたように、生物学や心理学といった一般的な学問分野において、ア・プリオリという概念は、肉体や精神の性質についての時間的な先行性を意味する「先天的」や「生得的」といった意味を表す概念として解釈されるのに対して、

人間の認識における知性の働きや、その論理的な仕組み自体を探究の対象とする哲学論理学といった学問分野においては、

ア・プリオリは、一義的には、経験に対する論理的な先行性を意味する「先験的」といった意味を表す概念として解釈されることになります。

しかし、そうするとここで、ア・プリオリという概念の解釈をめぐる一つの問題が浮かび上がることになります。

それは、哲学において、ア・プリオリ一義的には、「先験的」という意味を担う概念であるというのはいいとして、それでは、そうした哲学におけるア・プリオリという概念を、同時に生得的という意味も担う概念として解釈することは果たして誤りなのか?という問題です。

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論理的に先行するものは必然的に時間的にも先行するのか?

例えば、

一そうの笹舟が川の上流から下流へと流れていくという認識のあり方について考えるとき、

それが上流から下流への移動という物理法則に従った物体の移動という枠組みに基づく認識のあり方である以上、上流にある笹舟の認識は、下流にある笹舟の認識に論理的な順序として先行すると考えられることになりますが、

川を下っていく笹舟の認識が現実の世界の内の時間の流れの中に位置づけられる認識でもある以上、当然のことではありますが、上流にある笹舟の認識は、下流にある笹舟の認識に時間的な順序としても先行していると考えられることになります。

このように、

通常の場合、認識の論理的な順序において先行するものは、その存在の時間的な順序においても必然的に先行していると考えられることになりますが、

それならば、哲学において、「経験的」な認識のあり方を意味するア・ポステリオリと対置される概念である先験的な認識のあり方を意味するア・プリオリについても、

それを、あらゆる経験的な認識に時間的にも先行する生得的な認識のあり方を意味する概念としても捉えることは、必ずしも誤った解釈のあり方ではないのではないか?という疑問が生じてくることになります。

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中世のスコラ哲学における生得観念としてのア・プリオリの概念

こうしたア・プリオリという概念生得性という概念をめぐる解釈のあり方の問題については、哲学史の流れの中で、様々な議論の変遷が見いだされることになります。

例えば、

中世のスコラ哲学においては、現実の世界の内にある経験的な存在を意味するア・ポステリオリに対して、

そうした現実の世界の内には存在しない天使、あるいは、アレテーとも呼ばれる普遍的な観念の存在がア・プリオリな存在として捉えられていくことになります。

そして、こうした人間の心の内にあるア・プリオリな観念の存在についての議論は、その後の近代哲学の内にも引き継がれていくことになり、

近代観念論の祖であるデカルトにおいては、神の存在証明についての議論の中で、神の観念と、神が有する属性の中で人間の内には存在しない属性である無限性完全性といった観念の存在が経験的な認識の内には存在しないア・プリオリな観念として捉えられていくことになるのですが、

こうしたスコラ哲学デカルトの哲学思想においては、そうした人間の認識におけるア・プリオリな観念の存在は、生得観念という言葉によっても表現されていくことになります。

つまり、

中世のスコラ哲学やその後のデカルト哲学においては、ア・プリオリという概念は、人間の心の内に生まれながらに備わっているな観念である生得観念と呼ばれる概念と同じ意味を表す概念として用いられていたと考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

こうした中世のスコラ哲学デカルト哲学における生得観念としてのア・プリオリという概念の捉え方からも分かる通り、

哲学において、一義的には論理的な先行性を意味するア・プリオリという概念は、それを時間的な先行を意味する「生得的」という概念として捉えても、通常の場合はあまり大きな矛盾が生じることはないと考えられることになります。

結局、通常の場合、経験というのは、人間が現実の世界に生まれた後に与えられる後天的な要素であり、それに対して、経験に先立つ先験的な要素とは、人間の心の内に生まれつき備わっている先天的な要素ということになるので、

つまり、そうした意味において、

ア・プリオリという概念は、哲学においても、「生得的」あるいは「先天的」という意味を表す概念として解釈しても間違いではないと考えられることになるのです。

しかし、その一方で、

こうした哲学におけるア・プリオリという概念は、カントにはじまるドイツ観念論哲学における認識論上の議論概念の厳密な吟味を経ることによって、

中世のスコラ哲学デカルト哲学における生得観念といった概念とは大分意味合いの異なるより洗練された概念へと発展していくことになります。

そして、そうしたカント以降ドイツ観念論哲学における議論では、ア・プリオリという概念から「生得的」という意味は捨象されていき、

認識における純粋なる意味での論理的な先行性を意味する「先験的」あるいは「超越論的」といった意味を担う概念として哲学におけるア・プリオリという概念が捉え直されていくことになるのです。

・・・

次回記事:カントの認識論におけるア・プリオリな認識と生得観念の違いとは?ア・プリオリとは何か?⑥

前回記事:哲学と論理学における「先験性」としてのア・プリオリという概念の意味、ア・プリオリとは何か?④

関連記事:デカルトにおける生得観念の定義とは?神の存在証明の議論に基づく無限性と完全性の観念の生得説、生得観念とは何か?②

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