ロトが身代わりに自分の娘を差し出した理由とは?旧約聖書の世界観における善悪の最大の基準、ソドム滅亡の具体的な顛末②

前回書いたように、

ソドムの町を滅ぼすためにこの地を訪れた、人間の男性の姿をした二人の天使たちは、神の忠実な僕(しもべ)であるロトの招きに応じてその家を訪れ、彼と食事まで共にすることになるのですが、

そのような最中、ロトの家の戸口の前に、ソドムの町にはびこる悪漢たちが押しかけ、家の中にいる二人の男たちを自分たちの前に連れて来いと恫喝するように要求を突きつけてくることになります。

そして、

こうしたソドムの町の住人たちからの不当な要求に対するロトの対応が、前回に続いて、現代の感覚からすると相当違和感のある、疑問が残る対応にも思われることになるのですが、

まずは、この場面についての旧約聖書における具体的な記述について引用しておきたいと思います。

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ロトの対応は神に尽くす賞賛されるべき行為か?それとも人道にもとる非難されるべき行為なのか?

ソドムの町にはびこる悪漢たちによるロトの家の襲撃の場面は、旧約聖書の「創世記」においては、以下のように描かれています。

彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが若者も年寄りもこぞって押しかけ家を取り囲んでわめきたてた

「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいるここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」

ロトは、戸口の前にたむろしている男たちのところへ出て行き、後ろの戸を閉めて、言った。

「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」

(『旧約聖書』、「創世記」、19章4節~8節)

つまり、聖書のこの箇所では、

神の忠実な僕であるロトは、神からの使いである二人の客人たちを守るために、自らの身をていして暴漢たちの前に歩み出て、彼らを守ろうとしたところまではいいのですが、

そのために、ロトは、なんと、自分の二人の娘をも暴漢たちのところへ身代わりに差し出そうとしたということが語られているのです。

そして、こうした悪漢たちの襲撃に対するロトの対応は、

それが自分の家を訪れた客人である天使たちを守るための行為であったとはいえ、

その代わりに自分の娘まで盾にして、ソドムの町の男たちの前に生贄のように差し出すというのは、人の親としてはあまりにも非道な行為であり、

それは現代の感覚で考えると、忠実な僕として神に尽くそうとしたことを賞賛されるべき行為であるというよりも、むしろ、人道にもとる非難されるべき行為であるとも考えられることになります。

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旧約聖書の世界観における善悪の最大の基準とは?

しかし、

旧約聖書の世界観においては、最も善い生き方というのは、単に人間が考えた道徳や法律に従って自分が良いと判断することを行う生き方ではなく、

そうした人間の世界における道徳や理性の判断を超えて、全能にして無限に善なる存在である神の命令に従うことこそが絶対的な善であり、

自分や家族の命を差し置いてでも、まず第一に何よりも神のことを尊び、ひたすら神の命に従ってその存在に帰依することこそが最も善い生き方であると考えられることなります。

例えば、同じ「創世記」における記述の中でも、ロトが天使を守るために自分の娘を捧げようとしたことと似たような事例として、このすぐ後の章に、

ロトの伯父にあたるアブラハムが自分の息子イサクを神への捧げ物として殺そうとする記述が出てくることになりますが、

ここにおいても、アブラハムは、神のためには、文字通り自分の息子の命をも生贄として差し出すことをもいとわないことを身をもって示すことによって、

人間の世界において最も善良なる神の僕であることを認められ、生贄として殺される寸前で救われた息子イサクと共に、神による大いなる祝福を受けることになります。

このように、旧約聖書の世界観においては、

そもそも全能にして完全なる神の判断には、人間の不完全な理性ではおよそ計り知ることができないところがあるので、

それが人間の目にはどんなに理不尽なことに映っても、ひたすら神を信じてその命に従い、自分の財産も、自らの命も、そして自分の家族たちをも含めたそのすべてを神の前に投げ出して捧げることこそが、信仰の篤い、最上の善なる行為であるとみなされることになるのです。

・・・

以上のように、

神からの使いである二人の客人たちを守るためにロトが身代わりに自分の娘をも差し出そうとした理由としては、

旧約聖書の世界観においては、人間が善く生きるために最も重視すべきことは、何よりもまず第一に神のことを尊び、ひたすら神の命に従ってその存在に帰依することであったということが挙げられることになります。

そして、

そのためには、自分や家族の命をも神の前に差し出して神の御手にすべてを委ねる生き方こそが最上の善なる行為であるということになるので、

そうすることが結局は彼自身にとっても家族にとっても究極的には善き選択であるということを確信してロトは自分の娘の命をも神のために捧げようとしたと考えられることになるのです。

そして、

ロトが、神から遣わされた客人である二人の天使たちを守るために、自らの命だけではなく、大切な二人の娘たちまで犠牲に捧げようとしたことによって、

ロトとその家族たちは、悪徳のはびこるソドムの町の中で、唯一残された神に従う善良なる人々であることが証明され、

その後の話の流れの中で、ロトのその妻、そして二人の娘の四人家族だけは、ソドムの町がそこに暮らす住民ごと神のもとから放たれる硫黄の火によって焼き尽くされる前に、この悪徳の町の外へと逃れ出ることを許されることになります。

つまり、結果としては、

ロトは、神の使いである二人の天使たちを守るために、自らの二人の娘をも身代わりに捧げようとしたことによって、

そのままでは、町を滅ぼす硫黄の火によって焼き殺されるはずの運命になっていた彼女たちの命をも救ったと考えられることになるのです。

・・・

次回記事塩の柱となったロトの妻と冥界へと連れ戻されるギリシア神話のエウリュディケー、ソドム滅亡の具体的な顛末③

前回記事:ソドム滅亡の具体的な顛末①パンを食べ地に足をつく天使と数百年を生きる超人たちが生きた時代

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