功利主義の本質にある個人主義と快楽の最大化という二つの原理、少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?②

詳しくは、最大多数の最大幸福とは何か?②ベンサムの功利主義における身体的快楽の総和としての最大幸福で書いたように、

最大多数の最大幸福」を根本原理とするベンサムの功利主義においては、

善悪の判断基準も、個人的な身体的・心理的快楽の総和としての社会全体の最大幸福の実現に置かれることになり、

行為の結果として生じる快楽の総和が大きければ善であり、快楽の総和が小さく苦痛や害の方が大きければ悪であるとみなされることになります。

そして、このような功利主義の観点に立つと、

前回書いたように、それは一見すると、

加害行為の結果として生じる多数者の快楽の総和が少数の被害者が感じる苦痛の総和よりも量として十分に大きいものであるとするならば、

そうした大勢の人々少数の人々に対して行う差別や迫害行為を肯定する論理へとつながってしまうようにも考えられることになります。

功利主義においては、こうした少数者を犠牲にする形での最大幸福の実現はどのような論理によって否定され、そうした差別や迫害行為がはっきり悪であると規定することができることになるのでしょうか?

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功利主義における快楽の最大化と個人主義の二本柱

冒頭で述べたように、

ベンサムの功利主義における善悪の判断基準となる根本原理は、個人的な身体的・心理的快楽の総和の最大化という原理にあると考えられることになるのですが、

この道徳の原理は、より正確に言うと、

道徳的判断において、個人における快楽のあり方を重視するという個人主義の側面と、そうした個人個人における快楽を足し合わせた総和が大きくなる状態が善であるとする快楽の最大化という二つの側面に分けて捉えることができると考えられることになります。

つまり、

ベンサムの功利主義における根本原理は、
快楽の最大化個人主義という二つの柱に基づいて成立していると考えられるということです。

そして、

功利主義に対する一般的なイメージにも表れている快楽の総和の最大化を図るという観点に対して、功利主義における二本柱の内のもう一方である個人主義の観点から、

少数者の犠牲による多数者の幸福という最大幸福の実現のあり方が否定されていくことになるのです。

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少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化を否定するための個人主義に基づく解決策

ベンサムの功利主義においては、それが全体主義の対極にある個人主義に根差すものである以上、

個人の存在に先んじて、社会や国家が存在するわけではなく、
個人の価値以上にその集合体に過ぎない社会や国家全体の価値に重きが置かれることはないと考えられることになります。

したがって、

それが「最大多数の最大幸福」というスローガン(標語)にも表れているように社会や国家全体の幸福の最大化を目指すものであるとはいっても、

そうした社会全体の幸福の最大化は、あくまで、社会や国家を構成している一人一人の個人の幸福が最大化されることによって、その結果として生じる二次的なものに過ぎないと考えられることになります。

そして、このような考え方に従うと、

たとえ、大勢の人々が少数の人々を寄ってたかっていじめることによって社会全体の量としての幸福が増すようなことがあり得たとしても、

そのような少数派の立場に置かれた個人の幸福を減少させる形での社会全体の幸福の最大化は、功利主義の大前提である個人主義と、それに基づいて個人の幸福の最大化を目指すという功利主義の一義的なあり方と大きく矛盾することになってしまうので、

そうした少数者である個人を犠牲にする形での社会全体の幸福の最大化は、功利主義の原理に反するあり方として否定されることになるのです。

・・・

以上のように、

個人主義に根差しているベンサムの功利主義においては、あくまでも、個人個人の幸福の最大化が目指された結果として、社会や国家全体における幸福の最大化が生じるのであって、その逆に、個人に犠牲を強いることによって社会全体の幸福を図ることは正当化され得ないので、

功利主義においては、こうした個人主義の観点から、

大勢の人々による少数の人々への差別や迫害行為によって量としての幸福を増大させるといった少数者である個人を犠牲にする形での社会全体の幸福の最大化は、そのすべてが根本から原理的に否定されると考えられることになります。

そして、

こうした考え方に基づくと、

ベンサムの功利主義における「最大多数の最大幸福」のあり方は、より正確には、以下のように記述されるべきであると考えられることになります。

個人の集合としての社会全体の幸福は最大化されなければならない、
しかし、それは別の個人の幸福を損なわない限りにおいてである。

このように、

個人主義社会全体の幸福の最大化という二つの原理が組み合わさり、両者の相乗効果によって人間社会にとってあるべき道徳の姿が実現されていくという点に、ベンサムの功利主義における善悪の判断の原理の本質があると考えられることになるのです。

・・・

しかし、その一方で、

このように功利主義における道徳を実現するための車の両輪である個人主義社会全体の幸福の最大化という二つの原理が明らかになったところで、

今度は、こうした個人主義と社会全体の幸福の最大化という二つの原理同士が衝突した場合にある種のジレンマが生じてしまうことになるという新たな問題が考えられることになるのです。

・・・

次回記事功利主義における個人主義と社会全体の幸福の最大化のジレンマ①、二つの原理の衝突とその解決策

前回記事:少数者の犠牲に基づく社会全体の幸福の最大化は功利主義において否定されうるのか?①加害者の快楽の総和と被害者の苦痛の総和の関係

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