メタ哲学の先駆けとしての相対主義と懐疑主義の無限循環の迷宮、ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス⑤

前回書いたように、

相対主義における自己言及のパラドックスは、この問題を
言語の階層化という観点から捉え直すことによって一定の解決を見ることができると考えられることになるのですが、

こうしたゴルギアスなどのソフィストたちにおける
相対主義の主張は、

神の存在や世界の始まり、人間の魂などの個々の真理について探究する
通常の哲学のあり方ではなく、

哲学思想全体を上位の階層からメタ的に批判する
メタ哲学とでも言うべき探究のあり方としても捉えられることになります。

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現代哲学におけるメタ哲学の先駆けとしてのゴルギアスの相対主義の思想

メタ言語メタ哲学などといった概念における
メタmeta)とは、この場合、「超越した、高次の」といった意味で用いられていると解釈されることになります。

そして、

メタ哲学Metaphilosophyメタフィロソフィー)とは、
主に現代哲学の分野において用いられる概念であり、

哲学の全体的なあり方や哲学探究の目的方法論などを
より高次の次元高次の階層から俯瞰的に捉えて吟味し、批判を加えていく探究のあり方のことを示す概念ということになります。

こうした現代哲学におけるメタ哲学の探究に対して、

古代ギリシア思想における
ゴルギアスなどのソフィストたちの相対主義の思想も、

それまでのパルメニデスエレア学派を中心とする絶対的真理を探究しようとする哲学探究のあり方全体俯瞰的に捉えて、それを批判する試みであったと捉えることができます。

つまり、彼らの思想は、

世界におけるあらゆる思想と哲学のあり方について、
それらの個々の思想の世界の外に立って全体を俯瞰する視点から
哲学自体のあり方についての吟味批判を行う思想であったと捉えることができるということです。

そして、

こうした哲学自体のあり方批判し、
新たな哲学のあり方を模索する思考のあり方は、大きく時代を経て、

ニーチェなどにおける実存主義などの思想運動へもつながっていくことになると考えられるのですが、

さらに、こうした実存主義といった新たな思想運動の展開が
現代哲学と呼ばれる新たな哲学のあり方を切り拓いていくことにつながっていったと考えられることになります。

したがって、

ゴルギアスを中心とする古代ギリシアにおけるソフィストたちの相対主義の思想は、

こうしたメタ哲学という探究のあり方や、実存主義現代哲学の思想の先駆けとしても捉えられるような思想運動であったと考えることができるのです。

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パラドックス自体をも飲み込む懐疑主義の無限循環迷宮

そして、以上のような解釈の一方で、

こうした相対主義における自己言及のパラドックスについての
最後の、そして究極の解釈として、

こうした自己言及のパラドックスをあえて解決しようとはせずに、
むしろ、そのパラドックスの構造自体肯定的なものとして捉え、

パラドックス自体を飲み込む論理展開によって相対主義の議論を推し進めていくという解釈が考えられることになります。

相対主義における自己言及のパラドックスの問題点は、
このシリーズの初回で考えたように、

絶対的に正しい主張は存在しない」という相対主義の主張が
自分自身の主張へも跳ね返ってきてしまい、

相対主義の主張自体も絶対的に正しいわけではないという自己否定する結論が帰結してしまうことにその問題の根本があると考えられるわけですが、

ゴルギアスにおける相対主義と懐疑主義の主張を
より徹底的な形で推し進めていくにあたって、

こうした自分自身の思想に対する自己否定的な懐疑の構造
そのままに受け入れてしまうことも可能になるのではないか?と考えられることになるのです。

少々強引な議論にはなりますが、

<p style=”padding-left:1em”>
絶対的に正しい主張は存在しない
<p style=”padding-left:1em”>
そして、「絶対的に正しい主張は存在しない」という主張自体も
絶対的に正しいわけではなく
<p style=”padding-left:1em”>
さらに、
<p style=”padding-left:1em”>
「「絶対的に正しい主張は存在しない」という主張が絶対的に正しいわけではない」という主張自体も絶対的に正しいわけではない、・・・

というように、無限に展開されていく懐疑と否定の論理構造そのものに、
ゴルギアスにおける徹底的な懐疑主義の思想の本質が現れていると考えることもできるということです。

そして、

こうした相対主義における自己言及のパラドックスがもたらす
懐疑と否定無限の循環構造をそのままに受け入れることによって、

絶対的に正しい主張は存在しないという主張も絶対的に正しいわけではなく、
すべての真理は信じ得ないという主張自体も信じ得ないほどに人間の言論がもたらすあらゆる思想あらゆる価値観はあまりにも不確かであって、

この世界には信じるに値するものなど何も存在せず
信じるに値するものなど何も存在しないという主張自体も信じ得ないほどに
否定と懐疑の論理に満ちているという

徹底的な懐疑主義の思想の渦の中へと
引き込まれていくことになるのです。

・・・

以上のように、

相対主義における自己言及のパラドックスは、
現代哲学におけるメタ哲学の探究のあり方の先駆けとなる思想であると捉えることができると同時に、

その懐疑と否定無限の循環構造がもたらす徹底的な懐疑主義の思想は、
真理、そして、それを探究しようとする哲学の営みが根本的に不可解なものであるということを示しているパラドックスであるとも捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:言語の階層化に基づく自己言及のパラドックスの解決、ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス④

このシリーズの初回記事:ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス①何も知り得ないということを知り得るのか?

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