自己言及と否定の論理がもたらす真と偽をめぐる無限循環の構造、ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス②

前回書いたように、

ゴルギアスなどのソフィストたちの思想において顕著な
真理に対する懐疑主義相対主義の主張からは、「絶対的に正しい主張など存在しない」という命題が帰結することになるのですが、

この命題からは、

絶対的に正しい主張は存在しない」という主張自体も絶対的に正しい主張ではない
という自己矛盾する結論が導かれてしまうという自己言及のパラドックスが生じてしまうことになります。

今回は、こうした自己言及のパラドックスがどのような原理によって導かれているのか?というパラドックスの構造の具体的な中身について考えていきたいと思います。

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嘘つきのパラドックスと論理矛盾の堂々めぐり

自己言及のパラドックスとは、別名、嘘つきのパラドックスliar’s paradoxライアーズ・パラドックス)とも言われるように、

自分自身に対する言及に加えて、否定といった論理判断が合わさることによって現れるパラドックスと考えることができます。

嘘つきのパラドックス」とは、

例えば、

私は今、嘘をついている」と言っている人がいるとして、
その人は果たして嘘つきなのか?それとも正直者なのか?という問いを巡るパラドックスのことを指します。

私は今、嘘をついている」と言っている人のことを
嘘つきと考えても正直者と考えても、どちらの場合でも矛盾が生じてしまうので、
この人のことを嘘つきとも正直者ともすることができないというパラドックスが生じてしまうことになります。

この人が嘘をついていると仮定すると、

「私は今、嘘をついている」という文はその通り、正直なことを話していることになってしまうので、この人が嘘をついているという仮定と矛盾することになり、

したがって、この人は嘘をついていないはずということになります。

そこで、今度は、
この人が嘘をついていない、すなわち、正直に話していると仮定すると、

「私は今、嘘をついている」という文は、今度は、正直ではない嘘のことを話していることになってしまうので、この人が正直に話しているという仮定と矛盾することになり、この人はやはり、嘘をついているはずということになります。

そこで、今度は、
この人が嘘をついていると仮定すると、・・・

というように、矛盾した論理の堂々めぐりが生じてしまうことになるのです。

そして、

以上のような論理矛盾の堂々めぐりにおいて、

私は今、嘘をついている」と言っている人の発言文自体は、
であるともであるとも、どちらとも決定づけることが不可能になってしまうので、

正しい推論によって導かれたはずの結論が常に矛盾をはらみ続ける形で
無限に循環してしまうというパラドックスが生じてしまうことになるのです。

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自己言及と否定の論理のセットによって構成されるパラドックスの構造

ちなみに、

私は今、正直に話している」といった否定の論理を含まない自己言及のみの文でも、
彼は今、嘘をついている」といった自己言及を含まない否定の論理のみの文でも、
前述したような論理矛盾堂々めぐりが生じることはありません。

上記のいずれの文の場合でも、それらは、
矛盾なくである文か、矛盾なくである文かのいずれかであるということになり、

そのどちらであるのか?という問題は、文の論理構造ではなく、その文に対応する現実の世界における事実関係によって決まることになります。

例えば、

刑事裁判において、被告人が「私は今、正直に話している」と言って、
自らの無実を主張している場合、

無実を裏付けるアリバイなどが証明されれば
この発言はであるということになりますし、

反対に、有罪を決定づける物的証拠などが挙がれば、
上記の発言はであったと決定づけられることになります。

同様に、

検事が被告人を指差して「彼は今、嘘をついている」と言った場合も、その証拠を挙げることができればこの発言はとなり、反対に、そうした証拠が挙げられずに被告人の証言を裏付ける証拠が挙がれば、この発言はであったと決定づけられることになります。

そして、逆に言うと、

前述の「嘘つきのパラドックス」のような
自己言及否定の論理がセットになったタイプの発言文の場合は、

現実の世界における事実関係がどのようなものであれ、常に、
その発言文の真偽はどちらにも決めることができないという自己矛盾が生じてしまうと考えられることになるのです。

例えば、上記の裁判の例において、

被告人が「私は今、嘘をついている」と言った場合、

有罪を決定づける証拠か無罪を決定づける証拠のいずれが挙がった場合でも、
そうした事実関係とは一切関係なく

被告人の発言がであるとすると、「私は今、嘘をついている」という発言文自体はその通りでということになり、

今度は、被告人の発言がであるとすると、「私は今、嘘をついている」という発言文自体はということになるというように、

前述した正直を巡る論理矛盾の無限循環が生じていしまうことになります。

そして、このように、

現実の世界における事実とは一切関係なく、文を構成する論理構造のあり方のみによって、ともとも原理的に決定づけることができない論理矛盾の堂々めぐりが生じてしまうところに、

嘘つきのパラドックス」すなわち、自己言及のパラドックス
パラドックスたるゆえんがあると考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

相対主義の主張が陥る自己言及のパラドックスは、

自己言及否定の論理がセットになることで生じる
真と偽をめぐる論理矛盾無限の循環構造によって構成されるパラドックスであると捉えることができます。

そして、

こうした自己言及のパラドックスにおける
論理矛盾無限ループを避けるためには、

そのパラドックスを構成している否定の論理自己言及の構造のいずれかを排除しなければならないと考えられることになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス①何も知り得ないということを知り得るのか?

このシリーズの次回記事:自己言及文の指示対象からの除外と落書きのパラドックス、ゴルギアスの相対主義と自己言及のパラドックス③

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