分割不可能な究極の粒子と無限分割への無限後退、アナクサゴラスのスペルマタ(種子)と原子論における粒子の違い①

アナクサゴラスの哲学の概要で書いたように、

アナクサゴラスにおける種子spermataスペルマタ)の概念は、

デモクリトスにおける原子atomaアトマ)のような
それ以上分割不可能究極の構成要素とは異なる概念であると考えられることになるのですが、

今回は、物体の分割可能性という問題に対する両者の立場から、
より詳しく、それぞれの概念の相違点について明らかにしていきたいと思います。

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万物の始原の探求における物体の分割可能性の問題

ゼノンの多数性論駁についての議論ところでも書きましたが、

世界がどのような要素から構成されているのか?という
万物の始原archeアルケー、元となるもの)についての問いを立てるとき、

そこには、
物体の分割可能性という問題が立ちはだかることになります。

ある物体が特定の要素から構成されていると考えられるとき、
その物体はその特定の要素へと分解することができる存在であると考えられることになりますが、

例えば、

人間の身体は、手足や頭といった人体の各部分から構成されていますが、
その各部分は、皮膚や筋肉、神経、骨、さらには、個々の細胞といった
より小さな要素から構成されていると考えられることになります。

このように、

通常の物体は、より小さな構成要素へとどんどん分割していくことが可能な存在として捉えられることになるのですが、

物体の分割可能性の問題においては、
こうしたより小さな構成要素への分割は一体どこまで可能なのか?
ということが問題となるのです。

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絶対に割れない粒子か?無限分割への無限後退か?

こうした物体の分割可能性の問題について考える時、その答えは、

物体の分割はある特定の時点で限界に達するのか?それとも、
物体はどこまでも無限に分割することが可能なのか?という
いずれか一方の道に求められることになります。

そして、そのうちの前者の道を選び、

物体の分割がある特定の時点で限界に達すると考えるとすると、
その時点で、万物を構成するそれ以上は分割不可能究極の構成要素である原子のような存在へと到達すると考えられることになるのですが、

こうした一見当たり前にも見える考え方には、
一つの疑問点があると考えられることにもなります。

それは、原子がそれ以上分割不可能な要素であると主張しても、
それが一定の大きさを持つ存在である以上、
そうした原子のような存在も、さらに分割していくことが理論上は可能となってしまうのではないか?という疑問点です。

例えば、原子を一般的なイメージのように、
極めて微小ながら一定の大きさを持つ球形の存在として捉えるとするならば、

その微小な球体である原子を、微小な棒のようなもので叩いて
ミクロのスイカ割りのように二つに割ってしまうことはイメージ上は可能であり、
理論上もそうした分割可能性は排除しきれないのではないか?ということです。

さらに言うならば、

例えば、全能なる神がいるとして、
その神が、どんな物でも真っ二つに断ち切ることができる剣を作ったとするならば、

その何でも絶対に分かつことができる最強の剣
それ以上絶対に分かつことができないはずの原子を真っ二つに切ろうとしたら
いったいどうなってしまうのか?というように、

まさに、矛盾のような事態が生じてしまうとも考えられることになるのです。

そこで、もう一方の道を選び、

物体の分割は特定の時点で限界に達することがなく、
どこまでも無限分割することが可能であると考えるとすると、

そちらはそちらで問題が生じてしまうと考えられることになります。

物体が無限分割可能であるとすると、
物体を構成し、その存在根拠となっているはずの要素自体も

さらに小さな要素へと、どこまでも細かく分割していくことが可能ということになっていきます。

そして、

物体の無限分割において、
世界を構成しているはずの要素は、

要素の要素、さらにその要素の要素の要素へと
どこまでも無限後退していくことになってしまい、

いつまでたっても、世界を構成し、その存在根拠となっているはずの大本の要素、
万物の始原自体には行き着けないということになってしまうのです。

・・・

以上のように、

論理的には、物体の無限分割可能と考えても、それが不可能と考えても、どちらの道をたどっても、通常では納得しがたい一見不自然な論理的帰結が生じてしまうと考えられることになります。

そして、

物体の無限分割は不可能であると考え、
絶対に割れない究極の粒子という概念を許容する道を選ぶと、

それは、デモクリトスにおける原子論の思想へと通じることになり、

一方、

物体の無限分割は可能であると考え、
要素の要素への無限後退という論理を許容する道を選ぶと、

それは、アナクサゴラスにおける自然哲学の思想へと通じることになると考えられるのです。

そしてその上で、

こうした物体の無限分割の議論を成り立たせつつ
世界における事物の形成のされ方を合理的に説明するために登場するのが、

事物を形成する基本素材でありながら、
原子のような分割不可能究極の構成要素ではない

アナクサゴラスにおけるスペルマタ種子)の概念
ということになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:アナクサゴラスの哲学の概要

このシリーズの次回記事:自らの内に無限の部分を有する万能の種、アナクサゴラスのスペルマタ(種子)と原子論における粒子の違い②

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