エトルリアからのローマの自立と民族と国家への帰属意識の差、ローマ人とエトルリア人の関係⑦

前回書いたように、

王政期の古代ローマでは、エトルリア人の王による支配の下で、
ギリシア式の重装歩兵団を中心とする
エトルリア式の軍隊編成が進んでいくことになるのですが、

こうしたエトルリアからの強い政治的圧力と文化的影響下で
軍事的にも力をつけていったローマ人たちは、

徐々にその矛先をローマを支配するエトルリア人自身へと
向けるようになっていき、その力は、最後には、
エトルリア人自身へと跳ね返っていくことになります。

ローマ市民軍の王政への反乱と士気と団結力の差の背景

ローマ人がエトルリア人による王政を打破し、
自ら立ち上がって自立することを決意した背景には、

ルクレティアの悲劇などの
ローマ人としての民族の誇りを目覚めさせる事件などが
きっかけとしてあったとも考えられますが、

いずれにせよ、

いったんローマ市民軍によるエトルリア人王政への反乱が始まると、
数や装備では劣るローマ市民軍でしたが、

王政側とこれを擁護するエトルリア人諸都市の同盟軍を
高い士気と団結力によって圧倒していくようになります。

そして、

ローマ市民軍とエトルリア人諸都市の軍隊との間で
このような士気と団結力の差が生じた背景には、

ローマ市民軍が、市民権を持つローマ市民の一員として、
自分たちの国家を守り、自由を手にするという
明確な帰属意識強い目的意識を持って戦いに望んでいたのに対して、

もともと、同一の宗教的・文化的基盤に基づいて緩やかな連合体
形成していただけに過ぎなかったエトルリア人諸都市側の軍隊は、
そうした帰属意識や目的意識が弱かったことが挙げられると考えられます。

エトルリア人諸都市は、互いに同盟関係を結び、
連携しているとはいっても、その連帯と団結の力は弱く

援軍の派兵の条件も、情勢をうかがいつつ、
それぞれの都市に十分な利益があれば加勢するといった
相対的で打算的なものでしかなかったということです。

また、

当時のエトルリア人諸都市に住む人々にとって、
いまだローマは東方の小国に過ぎず、

北方のガリア人などの脅威に比べれば
取るに足らない存在に過ぎなかったので、

自分たちの権益に利すると考えれば、
一応同じ文化圏に属するエトルリア人のローマ王とその一族を
ある程度援護はしますが、

彼らが追放され、あるいは殺されたとしても、
それを直接自分たちの存亡に関わる重大な問題とは
考えていなかったとも考えられます。

そして、

こうした軍隊を構成する兵士と国民の
国家や民族への帰属意識目的意識の強さの差が

そのまま軍隊の士気と団結力の強さの差へと直結することとなり、

数や装備では優る王政側のエトルリア人諸都市の同盟軍は、
士気と団結力に優るローマ市民軍の勢いの前に
早々に瓦解してしまうことになるのです。

自立した帰属意識と強い団結力を併せ持つ新たな軍隊の完成

そういう意味では、

エトルリアの軍制は、形式的には、
ギリシア人やガリア人の軍隊などのそれぞれの良いところを取り入れる形で
より整備され優れた軍隊編成を整えていたのですが、

自らがギリシア人であるという自律的で自由な帰属意識のもと、
自分が帰属する民族と国家のために命を賭けてでも戦い抜くという

ギリシア的な重装歩兵の軍制が、その精神的な意味合いも含めて
真の意味で継承されたのは、エトルリアの軍隊ではなく、
ローマ市民軍の方であったと考えることができるかもしれません。

また、同様の理由から、

エトルリアから受け継がれた
ファスケスに象徴されるような団結と結束の精神も、

それが本当の意味で花開いたのは、
ローマ市民軍による王政の打破によって始まる
共和政ローマの時代ということになるのかもしれませんが、

いずれにせよ、ここにおいて、

自らの国家と民族への自立した帰属意識
強い求心力と団結力とを兼ね備えた
ローマ式の新たな軍隊の原型が完成することになるのです。

ローマのエトルリアからの自立とエトルリア人都市国家の滅亡

そして、

紀元前510年に決起したローマ市民軍は、
その強い求心力と団結力を背景に、わずか一年足らずで、
王政派とこれに同盟するエトルリア諸都市の連合軍を打ち破るに至り、

紀元前509年に、エトルリア人であった
第7代ローマ王タルクィニウス・スペルブス
ローマから追放することに成功します。

そして、

このタルクィニウス・スペルブス王のローマ追放をもって
エトルリアによるローマ支配王政ローマの歴史はその終焉を迎え、

ローマ市民軍を率いた指導者である
コラティヌスユニウス・ブルトゥスという
二人のコンスルconsul執政官)の指揮のもと、

ローマは、共和政ローマとして
新たな歴史の道を歩み始めることになります。

そして、

ローマの勢力がエトルリアと同等に近い程度にまで拡大するに至ると、
団結力と統率力に富む新興勢力である共和政ローマの軍隊の勢いに押されて
求心力の弱いエトルリア人の都市同盟は次第に瓦解してしまいます。

共和政ローマ軍によってエトルリア人諸都市が
次々に各個撃破されていくなかで、エトルリア人は徐々に、
その勢力をローマへと吸収されていきますが、

相次ぐ征服と併合によって、紀元前1世紀頃までには、
エトルリア人は完全にローマへと同化されてしまうことになり、

ここに、独立した民族および国家としての
エトルリア人都市国家は滅亡を迎えることとなるのです。

・・・

以上のように、

数と装備で劣るローマ軍がエトルリア人の王を追放して
共和政ローマとしての自立した国家の歩みを開始し、

その後、かつての支配者であったエトルリア人諸都市を征服し、
その勢力を完全に吸収してしまうまでに至ったのは、

ローマ人とエトルリア人の
自らの民族と国家への帰属意識結束力の強さの差に
その原因があったと考えられます。

そして、逆に言うと、

遠い先の時代、
共和政ローマの成立から千年の時を経て

帝国内に居住するローマ人たちの
自らの民族と国家への帰属意識が薄れ、
ファスケスに象徴されるような団結と結束の精神を失っていき、

皇帝とその権力を支える行政機関や軍司令官が
求心力を失っていくようになると、

ローマ帝国は没落と滅亡への道をたどりはじめることになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:エトルリアの重装歩兵とピルムとローマへの軍事的基盤の継承、ローマ人とエトルリア人の関係⑥

このシリーズの初回記事:海洋民族エトルリア人の特徴と、トスカナ地方とティレニア海の語源

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