ローマとエトルリアの地理的関係と政治的支配、ローマ人とエトルリア人の関係とは?①

このシリーズの前回までの記事では、

古代ローマの建国とその初期の発展に深い関わりのある人々であり、
古代イタリア世界においてローマに先駆けて先進文明を築いた民族である
エトルリア人の起源やその民族的特徴について考えてきましたが、

今回からは、

エトルリアと都市国家としてのローマは
どのような地理的関係にあり、

いかなる政治的・文化的要素がどのようにして
エトルリア人からローマ人へと継承されていったのか?

そして、

軍事的基盤の継承から、ローマのエトルリアからの自立
どのようにして進んでいったのか?といった

ローマ人とエトルリア人の関係について
より具体的に考えていきたいと思います。

その初回である今回は、
ローマとエトルリアの地理的な関係について記述したうえで、

都市国家としてのローマ建国当初からのエトルリア人との関係
エトルリア人と深い関わりのある王政ローマの歴史の流れについて
改めて整理しておきたいと思います。

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ローマとエトルリアの地理的関係

都市国家としてのローマは、

ローマ人自身も属しているラテン人の居住地域であった
ラティウム地方の北西部に位置していました。

一方、

ラティウム地方の北のイタリア半島北西部の広大な領域は
エトルリア人の勢力範囲となっていて、

イタリア半島北西部のトスカナ地方を中心に、
北はアルプス山脈のふもとから、
西はティレニア海を越えてコルシカ島までもが
エトルリア人の勢力下に組み込まれていました。

エトルリアと都市国家ローマおよびラティウム地方の地理的関係

そして、

都市としてのローマの北西には、
わずか16kmほどしか離れていない地点に
エトルリア人の大都市ウェイイVeii)が位置するというように、

建国当初の初期のローマは、
北方のエトルリア人の勢力圏との境界地域に位置していて、

エトルリア先進文明からの強い圧迫と影響を受けながら
都市国家、そして王政ローマとしての発展の道を歩むこととなったのです。

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王政ローマの建国とエトルリアによる政治的支配

都市国家としてのローマの建国は、
神話的な要素も多く含まれるローマ建国史においては、
公式には紀元前753年4月21日であったとされていて、

この日に、都市ローマの建設を率いたとされる
ロムルスとレムスの双子の兄弟の内の兄である
ロムルスRomulus)が初代ローマ王として即位することによって
王政ローマの時代が始まったとされています。

しかし、

公式な建国年代とされる紀元前8世紀頃のローマの実際の姿は、
いまだ七つの丘に広がる小さな集落の寄せ集めに過ぎず、

ローマが都市国家としての機能を完全に備えるようになったのは、
紀元前7世紀末紀元前6世紀中頃に入ってからだとも考えられています。

一方、

エトルリア人の勢力は、紀元前8世紀頃までには、
タルクィニアウェイイといった都市を中心に、安定した統治体制を持った
王政を敷く都市国家をすでに数多く確立させていて、

これらのエトルリア人都市国家同一の宗教的・文化的基盤に基づいて
緩やかな連合体である都市同盟を結ぶことによって、
エトルリア人都市同士で互いに連帯しながらその支配領域を広げていました。

そして、

王政ローマの歴史においては、初代ロムスル王以降、
サビニ人であるヌマ・ポンピリウスといった
神話的で伝説的な王の治世が続いていくことになるのですが、

紀元前7世紀末の紀元前616年になると、
エトルリア人出身タルクィニウス・プリスクス
王政ローマの5代目の王として即位し、

エトルリアのローマに対する影響力と政治的圧力が
さらに高まっていくようになります。

その後、紀元前509年に王政が打倒され、共和政ローマがはじまるまでの
およそ100年間にわたってエトルリア人王によるローマ支配
続いていくことになり、

エトルリア人王による支配が長く続いていく間に、
都市国家としての王政ローマは、実質的には、
エトルリアの属国に等しい状態へと陥ってしまうことになるのです。

・・・

以上のように、

都市国家としての古代ローマは、
北方の先進文明地域であるエトルリアとの
ちょうど境界地域に位置していて、
その強い影響下において発展していったと考えられるのですが、

先ほど述べたように、
ローマが都市国家としての実質的な機能を備えるようになったのは
早くても紀元前7世紀末頃と考えられ、

王政ローマにおいて最初のエトルリア人王が即位したのも
紀元前7世紀末であるとされているので、

都市国家としてのローマが実質的に確立された年代と
エトルリア人によるローマ支配が始まった年代は
時期としてちょうど一致することにもなります。

つまり、

王政ローマは、その実質的な建国の当初から
エトルリア人の王の支配下にあり、

古代ローマは、エトルリアからの強い影響とその政治的圧力の下にありながら、
都市国家としての文化的・経済的発展の道を歩んでいったと
考えられることになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:
海の民の正体とエトルリア人との関係性、エトルリア人の起源とは?③

このシリーズの次回記事:
エトルリアからローマへの技術と文化の継承、ローマ人とエトルリア人の関係とは?②

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