「海の民」の地中海侵攻ルートと三つの古代文明の滅亡と衰退、海の民の地中海世界への侵攻①

海の民Sea Peoples)とは、

紀元前1200年前後に、突如として海から現れ、
東地中海世界一帯を席巻して
多くの古代文明を壊滅状態へと陥れたのち、

再び海の彼方へと去って行った
系統未詳の民族のことを指す概念です。

英語の”people”は、特定の「国民」や「民族」を指す場合は可算名詞となりますが、「海の民」は、複数の民族の集団から構成される混成民族だったと考えられるので、英語の表記では可算名詞としての”people”の複数形”peoples”が使われ、
Sea Peoples“となります。

ただ、「海の民」という言葉には、単に、「海から来て災厄をもたらした人々
という漠然とした意味で使われることも多いので、その場合は、”people”は
「(一般的な)人々」を意味する単数形のままで複数扱いの名詞となり、
Sea People“という表現も可能ということになります。

つまり、「海の民」の英語表記は、歴史学などの学問分野において、それを特定の民族集団として扱う場合は、”Sea Peoples“と書くのが望ましいのですが、通常の文脈で語る場合には、”Sea Peoples“と書いても、”Sea People“と書いても
どちらでも間違いではないということです。

そして、

海の民」を構成する人々は、
比較的小規模の民族や部族の寄せ集めであり、

当時の彼らに、大国を滅ぼして自らが世界の覇権を握ろう
といった強い意志や明確な目的意識があったとは考えられないのですが、

そうした小規模の集団が互いに合わさって、
大きなうねりを形成していくことによって、

古代世界の文明諸国に対抗し、
最後には、これを凌いで滅ぼすほどの
大きな力を持つようになっていったと考えられるのです。

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「海の民」の小アジア内陸部への侵攻とヒッタイト帝国の滅亡

海の民の侵攻ルートと地中海世界における三つの古代文明、エーゲ文明、ヒッタイト帝国、エジプト新王国の位置関係

前回の「海の民の正体とエトルリア人との関係
で書いたように、

海の民」は、東地中海沿岸でその活動を開始し、
はじめは、エーゲ海両岸の比較的小規模な
ギリシア人植民市などを襲撃する

海賊行為のような略奪活動によって
一定の集団を維持していたと考えられるのですが、

破壊された都市の住民が流民となり、
新たに「海の民」の一員として加わっていくなかで
その勢力は加速度的に増大していき、

ペロポネソス半島のミケーネ文明を中心とする
エーゲ文明を構成する都市全体へと
次第に襲撃の規模が拡大していきます。

そして、

エーゲ海両岸のギリシア人諸都市を荒らし回る中で
急速に勢力を膨れ上がらせていった「海の民」は、

今度は、

小アジアアナトリア、現在のトルコ)の
より内陸部の都市へと攻め込んでいき、

古代オリエント世界の覇者
ヒッタイト帝国と衝突することになります。

ヒッタイトは、

世界最初の鉄器文明を築いた民族であり、
鉄製の武器と馬に引かせて走らせる戦車を用いることで

古代エジプト王国と並ぶ
古代世界最強の軍事力を誇っていたのですが、

「海の民」の侵攻によって
配下の諸都市が次々に破壊されていくと
その支配体制は急速に瓦解していき、

早くも、紀元前1190年頃には、
ヒッタイト帝国は滅亡を迎えてしまうことになるのです。

ヒッタイトは、海の民の侵攻から
さかのぼること三十年ほど前から

王家の内紛や度重なる領内の飢饉に見舞われることによって
その国力は衰亡の一途をたどっていたのですが、

このような風前の灯火となっていた古代軍事大国
とどめを刺す最後の一撃を与えたのが
海の民」であったということになるのです。

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エジプト新王国との衝突とエーゲ文明の滅亡

古代世界最強の軍事大国ヒッタイトを破って
勢いづく「海の民」は、

周辺諸都市を飲み込みながら
シリアからパレスチナへと南下し、

ついに、エジプト新王国の支配領域へと
到達することになります。

「海の民」は、エジプト新王国軍との
二度にわたる大きな戦争の末、

ナイル川の河口付近まで攻め寄せたものの
エジプト本国を攻略するまでには至らず、

エジプト軍との二度目の戦いの後、
紀元前1170年頃までには、その本隊はこの地を去り、
戦乱の舞台を再び東地中海へと移していくことになります。

エジプト新王国軍は、何とかエジプト本国までの
「海の民」の侵攻は阻み、

彼らを、シナイ半島の北部から
東地中海の海原へと弾き返すことには成功したのですが、

勝利をおさめたエジプト軍の側も消耗が大きく、
「海の民」を追撃するだけの余力はなかったので、

その後も、エジプト王国領内の諸都市は、
「海の民」の残党による断続的な襲撃を受け続けることになり、
さらなる国力の衰退を招いていくことになります。

エジプト新王国は、一時は、
ヒッタイト帝国と共に、中東世界を二分するまでに至り、
その支配領域をオリエント世界まで拡大していった
古代地中海世界最大の大国だったのですが、

こうした「海の民」との交戦による
軍事的疲弊経済的損失に加え、
王家の内紛などの政情不安も重なっていくことにより、

「海の民」の侵攻による直接的な滅亡こそは免れたものの、
かつての世界帝国としての偉容は見る影もなく、
その後は、衰退の一途をたどっていくことになるのです。

一方、

エジプト軍の抗戦によって地中海の海原へとはじき返された
海の民」の主力勢力は、

その後、以前の襲撃を逃れ、辛うじて生き残っていた
古代エーゲ文明ギリシア人諸都市へと
再びその矛先を向け変えていくことになります。

今度の「海の民」の侵攻では、
ミケーネティリンスといった
文明の中心を担う主要都市まで徹底的に破壊し尽され、

文明の知識や技術、そして、
その前提となる文字文化の存在まで、

およそ文明的と言える要素は、
古代ギリシア世界から
すべて根絶やしにされてしまうことになります。

そして、

紀元前1150年頃までには、
この地方のほとんどすべてのギリシア人諸都市が荒廃し、
破壊された都市ごと捨て去られてしまうことになり、

ここにおいて、
古代ギリシア最古の文明であった
エーゲ文明は、

地球上から完全にその姿を消し去られ、
完全なる滅亡を迎えることとなるのです。

・・・

以上のように、

海の民」による地中海世界の侵攻
東地中海のエーゲ海沿岸部から始まり、

そこから、小アジア内陸部への進出と
ヒッタイト帝国の滅亡

さらに、エジプト新王国との衝突から、
再びエーゲ海の古代ギリシアの文明地域へと侵攻し、
エーゲ文明の滅亡へと至ることになります。

実際の「海の民の侵攻は、雑多な民族が互いに入り乱れ、
その侵攻の主体も、攻撃対象も次々に移り変わっていく
多面的断続的な形で進んで行ったので、

上記の「海の民の侵攻ルートは、
実際にそのルート通りに「海の民」の一団が
整然と行進していったというわけではなく、
むしろ、大枠の流れを説明する概念的な模式図に近いのですが、

上記の通り、「海の民」の侵攻は、

古代ギリシア文明のエーゲ海沿岸の世界、
ヒッタイト帝国を中心とするアナトリアとメソポタミア、そして、
北アフリカの古代エジプト王国の支配領域という

三つの古代文明の世界を次々に巡っていく形で
展開されていったということは確かだと考えられます。

このように、「海の民」は、

ヒッタイト帝国とエーゲ文明という
二つの古代文明を滅ぼし

エジプト新王国という
一つの古代文明にその後の発展を永久に閉ざすほどの
大打撃を与えたのちに、

再び海の彼方へと去って行くのですが、

彼らが破壊した後に残った世界には、
それまでに文明がもたらしてきた
学問知識技術も、それを書き記す文字すらなくなってしまったので、

残された世界は、文明の破壊者である
彼らのことを記録する術すら失ってしまうことになります。

自らが破壊した古代文明の跡地において、
海の民」自身の消息もそれ以上たどることは不可能となり、

文字すら存在しない無秩序で非文明的な
暗黒時代の中で、

古代文明の破壊者であった
彼ら自身の姿も埋没していくことになるのです。

・・・

関連シリーズの前回記事:
海の民の正体とエトルリア人との関係、エトルリア人の起源とは?③

このシリーズの次回記事:「海の民」を構成する主要な十の民族の地理的関係、海の民の地中海世界への侵攻②

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