サビニ人との融合と「傲慢王」タルクィニウス・スペルブスの治世、古代ローマ建国史⑤

歴史的都市としてのローマは、

前回書いた七つの丘のそれぞれに点在していた
比較的小規模の集落紀元前6世紀までに合流し、

一つの都市国家を形成することによって
形づくられていったと考えられます。

そして、

古代ローマの王は、世襲制ではなく
元老院を中心とする貴族や
それぞれの地区を代表する有力者の間での話し合いによって
選ばれていたと考えられるのですが、

こうした合議制に基づく王政のもと、

初代ローマ王ロムルス以降の
王政ローマはどのように推移していったのでしょうか?

サビニ人との融合とエトルリア人による支配

ロムルス王Romulus)の治世のもとで勢力を拡大するローマは、
近隣に居住していた周辺部族サビニ人との抗争の末、
和平を結び、

ローマ人とサビニ人が一つの民族へと合同する形で
彼らの勢力を吸収することになります。

これにより、王政ローマ自体が
ローマ人サビニ人による共同統治体制となり、

ロムルスの次の王もサビニ人である
ヌマ・ポンピリウスが選ばれることになります。

その後も、

3代目の王はローマ人のトゥッルス・ホスティリウスが、
4代目の王はサビニ人のアンクス・マルキウスが就くというように、

初代ロムルスから4代目までのローマ王には、
ローマ人とサビニ人が交互で就くという形で運営され、

安定した共同統治体制が維持されていくことになります。

しかし、

こうした理想的とも言える
ローマにおける自治的で穏健な王政のあり方は、

5代目の王に、北方の大国エトルリアEtruria出身
タルクィニウス・プリスクスTarqinius Priscus)が即位すると

その事情が大きく変わっていくことになります。

タルクィニウス・プリスクスは、ローマにとっては
外国人であるエトルリア人でありながら、

豊富な財力と、有能な政治手腕によって
ローマ王の座を勝ち取りますが、

それ以降は、実質的な世襲制に近い形で、
タルクィニウスの子孫やその縁者が
ローマ王位を継承していくことになります。

そして、

以降、100年間にわたって
エトルリア人王によるローマ支配が続いていくことになるのです。

「傲慢王」タルクィニウス・スペルブスの専横

こうした王政ローマにおける
エトルリア人王による専制支配の傾向は、

タルクィニウス・プリスクスから数えて3代目にあたる
タルクィニウス・スペルブス王Tarquinius Superbusの治世において
著しく強まっていくことになります。

プリスクス王の孫にあたる
エトルリア人のタルクィニウス・スペルブスは、
自らがローマ王として君臨するために、

自分の妻トゥーリアをそそのかして
妻の実父にして、自分の義父にもあたる

第6代ローマ王セルウィウス・トゥッリウスを
暗殺するように仕向けます。

トゥーリアに彼女の実の父であるセルウィウス王を殺害させたスペルブスは、
その足ですぐさま先王の不慮の死を理由に
王の諮問機関である元老院を招集すると、

その場で、自らが
王政ローマ7代目の王に即位することを宣言します。

そして、

一種のクーデターのような形で
ローマの支配権を手にしたスペルブス王は、

先王の政治に協力していた元老院議員を悉く殺害して、
元老院を自由に動かせるようにすると、

ローマの行政機関の要職などにも、自らの縁者を中心とした
エトルリア人を多く起用するようになっていきます。

タルクィニウス・スペルブス王には
のちに「傲慢王」という不名誉なあだ名がつけられることになり、

その呼び名が示す通り、彼は、
自らの政治に逆らう者はすべて粛清し、

ローマの都市と市民を
自らの私有財産であるかのように扱い、

その権力を恣にするようになるのですが、

こうしたスペルブス王による
独裁恐怖政治のなかで、

都市国家ローマは、
実質的にエトルリアの属国に等しい状態に陥り、

ローマ市民は、
エトルリア人王の奴隷にも等しい状態へと
貶められてしまうことになるのです。

・・・

そして、

以上のような、ローマ人にとって暗雲立ち込める
第7代タルクィニウス・スペルブス王の時代、

エトルリアの属国の民として生きることに甘んじていた
すべてのローマ市民が怒りに震え

自らの民族の誇りに目覚めて立ち上がることを余儀なくされる
一つの悲劇が起きることになります。

・・・

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このシリーズの前回記事:
ロムルスの弟殺しと七つの丘の上の建国、古代ローマの建国史④

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