メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学③意識を持つ精神的実在としての神

前々回の議論では、
メリッソスの哲学において、

真なる実在である「あるもの」(to eonト・エオン)は、
完全にして全一なる非物体的存在であることが明らかとなり、

前回の議論では、
そうした完全で全一なる真なる実在である「あるもの」においては、

それ自体としては大きさを持たないものが
無限の空間の内に遍在する

という意味において、

非物体性空間的無限性という二つの概念が両立する
ということを論証しました。

それでは、以上のような、
完全にして全一なる非物体的存在であり、
無限の空間の内に遍在する「あるもの」(ト・エオン)とは、
具体的にはどのような存在であると考えられるのでしょうか?

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意識を持つ存在としての「あるもの」

メリッソスの哲学において、
真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)は、

非物体的存在であると同時に、
苦痛や苦悩が全くない存在としても捉えられています。

苦痛や苦悩といった感覚や感情は、
肉体や精神の状態のバランスの欠如によってもたらされると考えられますが、

完全にして全一なる存在である「あるもの」においては、
それが、完全無欠の存在である以上、
いかなる意味においても欠如が生じることはあり得ないので、

苦痛や苦悩をもたらすバランスの欠如自体が生じ得ず、
真なる実在は、常に、永遠なる充足の内にあり続けるということです。

ここで、注目すべきこととして、
メリッソスにおいて、真なる実在である「あるもの」が、

ある種の思惟意識のようなものを持った存在として捉えられている
ということが挙げられます。

「あるもの」は、それが完全性を有する存在である以上、
バランスの欠如が生じることはあり得ないわけですが、

それが、バランスの欠如が生じ得ないがゆえに、
実際には苦痛や苦悩を感じることがないということは、

逆に言えば、

もし仮に、バランスの欠如が生じることがあり得るとするならば、
「あるもの」は、苦痛や苦悩を感じることができる存在として
捉えられているということも意味します。

つまり、

メリッソスにおいて、「あるもの」は、

実際に苦痛や苦悩を感じることはあり得ないが、
苦痛や苦悩を感じる能力は有する存在として
捉えられているということです。

そして、

苦痛や苦悩を感じ得る存在とは、すなわち、
意識を持った存在ということになるので、

メリッソスにおいて、真なる実在である「あるもの」は、
意識を持った存在として捉えられていることになるのです。

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非物体的存在である精神的実在としての神

以上のような考察に基づいたうえで、

メリッソスの哲学における
非物体的存在である真なる実在とは、
具体的に何なのかというと、

それは、端的に言えば、
精神的実在としての神ということになるでしょう。

通常の理解においては、
物体精神とは対をなす概念なので、

そのままストレートに、

存在の内で、物体的存在でないものは、
精神的存在であると考えてもいいですし、

前述の通り、メリッソスにおいて、
真なる実在である「あるもの」は、
意識を持った存在として捉えられているので、

意識を持った非物体的存在というのは、
すなわち、精神的存在ということにもなります。

そして、

完全全能なる存在として捉えられる真なる実在とは、
それは、単なる存在や実在であるだけでなく、
むしろ、全能の神であると言っているのに等しいことになるので、

メリッソスの哲学における
非物体的存在である真なる実在とは、すなわち、

精神的実在としての神ということになるのです。

・・・

以上のように、

メリッソスの哲学においては、

世界全体を包み込み、その基盤となっている
真なる実在とは、非物体的存在であり、

それは、
精神的実在としての神と同一の存在として
捉えられることになります。

そして、

こうしたメリッソスにおける
唯心論ないし唯神論的世界観は、

プラトンのイデア論やプロティノスの「一者」の思想といった
その後の観念論((英)idealism、(仏)idealismeイデアリスム)哲学へと
受け継がれていき、

それは、特に、スピノザ万有内在神論
深い関係にあると考えられるのですが、

それについては、次回詳しく考えていきたいと思います。

・・・

このシリーズの前回記事:
メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学②空間的無限性と非物体性の両立

このシリーズの次回記事:メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学④スピノザの神即自然とメリッソスの真なる実在

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