メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学②無限の空間の内に遍在する大きさなきもの

前回の議論の最後で触れたように、

メリッソスの哲学において、
完全で全一なる真なる実在である「あるもの」(to eonト・エオン)は、

空間的に無限の存在であると同時に、
非物体的存在でもあるということになるわけですが、

これは、一見すると矛盾する話のようにも思えます。

なぜならば、

空間的に無限であるということは、通常、
その存在が空間的に無限に大きいということを意味すると考えられますが、

大きさ、ないし、延長(その存在によって、一定の幅、高さ、奥行きを持った空間が満たさていることを示す存在様式)という概念は、
物体的存在にのみ帰属する属性なので、

物体ではない存在には、
大きさ自体が存在しないと考えられるからです。

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神は白髭のおじいさんなのか?それともミジンコよりも小さいのか?

例えば、

非物体的存在の一つとして
全能なる神のような存在を考える時、

そのような全能なる神が、白髭のおじいさんの姿のような
人間と同じような大きさや形を持った存在として捉えることは
誤った認識であり、

それは、むしろ、いかなる大きさも形も持たない
ある種の意識や精神的存在として捉える方が
適切と考えられるように、

非物体的存在は、定義上、
それ自身としては大きさを持たない存在であると考えられます。

しかし、一方で、

完全で全一なる実在である「あるもの」(ト・エオン)が、
いかなる意味においても大きさを持ち得ない存在であり、

空間的概念の内では、
限りなく大きさを持たない存在として捉えられるとすると、

それはそれで、別の問題が生じてしまうことにもなります。

例えば、先ほどの例で考えるならば、

全能なる神が、いかなる意味においても大きさを持ち得ず、
空間的概念の内において、限りなく大きさを持たない存在として
捉えられるとすると、

それは、
大きさゼロに限りなく近い存在、すなわち、無限小の存在
ということになります。

つまり、

空間の内においては、
全能なる神は、ミジンコよりも小さい無限小の存在
ということになってしまうわけですが、

このように、神がミジンコより小さな存在であるというのは、
それが、白髭のおじいさんのような大きさと形をしているというのと同じくらい
変な話のように思えます。

全能であり完全であるものの無限の能力に基づく説明

別の言い方をするならば、

そもそも、

全能という概念は、どんなことでもできる完全無欠の能力を持っている
ということを示す概念なので、

その完全なる能力を持っているはずの全能なる神が、
いかなる意味においても大きさを持ち得ず
無限に小さい存在であるというのは、

神の全能性に反するとも考えられることになります。

神が全能であるならば、その無限の能力の中には、
空間の内で限りなく大きさを占めることができる能力も
含まれていることになるので、

完全無欠の能力を持つはずの全能なる神において、
大きさを持つことができないという能力の欠如があるとすると、

それは、神の全能性の概念矛盾してしまうことになる
ということです。

そして、それと同様に、

完全で全一なる実在である「あるもの」(ト・エオン)についても、
それが完全性を有する以上、

そこには、いかなる意味においても、欠如限界も存在せず、
それは無限の能力を有することになるので、

そうした完全なる存在において、それがいかなる意味においても大きさを持ち得ず、
空間的に存在することができないという能力の欠如があるとすると、

それは、「あるもの」(ト・エオン)の完全性という本性規定と
矛盾することになってしまうのです。

つまり、

非物体的存在であり、完全で全一なる実在である
「あるもの」(ト・エオン)は、

それ自身として一定の大きさを持つ存在であると捉えても、

いかなる意味においても大きさを持ち得ない存在
であると捉えても、

どちらの場合においても矛盾が生じることになってしまう
ことになるのです。

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大きさを持たないものが無限に大きい空間の内に遍在する

それでは、いったい、

非物体的存在であり、完全で全一なる真なる実在である
「あるもの」(ト・エオン)は、

空間においてどのように存在すると考えればよいのか?
ということですが、

それは、

メリッソスの哲学において、

それ自身としてはいかなる時間規定も持たない
無時間的存在であるはずの「あるもの」(ト・エオン)が、

人間の視点から捉えられた、時間概念の内においては、
永遠性の内に捉えられることになることと同じ思考の構造を

空間概念においてもそのまま適用すればよいと考えられます。

具体的に言うと、

非物体的存在であり、完全で全一なる真なる実在である「あるもの」は、

それ自身としてはいかなる大きさも空間的規定も持たないが、

それが、人間の視点から、空間概念の内に見いだされるときには、
無限に大きい空間の内に遍在するものとして捉えられるということです。

真なる実在自体は、
空間においても時間においても捉え尽くすことはできないので、

それ自体が、空間において一定の大きさを持つ存在として捉えるのは
誤った認識ということになりますが、

その一方で、

それが空間において存在することができないとすると、
能力の欠如があることになり、完全性の概念と矛盾することになるので、

真なる実在をいかなる意味でも大きさを持ち得ない存在として捉えるのも
誤った認識ということになります。

したがって、

非物体的存在であり完全で全一なる真なる実在は、

空間においても時間においても捉えきることはできないので、
それ自体としては大きさを持たない存在であるが、

その真なる実在を、人間の認識において、
空間という概念に当てはめて捉えるならば、

それは、世界全体を包み込み、
世界全体に遍在するという意味において、
空間的に無限の存在として捉えられることになるのです。

別の言い方をするならば、

真なる実在は、本質的には非物体的存在であり、
それ自身としては大きさを一切持たないが、

その完全なる能力と力は、あらゆる空間的・時間的障壁を超えて、
無限に遠くまで到達するという意味において、

真なる実在は、空間的時間的に無限である
と捉えることもできるでしょう。

いずれにせよ、以上のように、

完全で全一なる真なる実在である
「あるもの」(ト・エオン)は、

時間規定においては、
それ自体としては無時間的存在であるものとして
無限に長い時間である永遠性の内に遍在するのと同様に、

空間規定においては、
それ自体としては大きさを持たないものとして
無限に大きい空間の内に遍在する

という意味において、

非物体性空間的無限性という二つの概念の両立が成立していると
考えられるのです。

・・・

それでは、

完全で全一なる真なる実在である「あるもの」(ト・エオン)が
物体的存在ではないとすると、

それは、具体的にどのような存在であると考えられるのでしょうか?

この問いについては、次回詳しく考えてみたいと思います。

・・・

このシリーズの前回記事:
メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学①完全にして全一なる非物体的存在

このシリーズの次回記事:
メリッソスにおける実在の非物体性と唯心論哲学③意識を持つ精神的実在としての神

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