空虚(ケノン)から原子論(アトミズム)へ②レウキッポスにおける原子の運動の場の理論

前回の議論で考えたように、

エレア学派のメリッソスにおいては、

空虚kenonケノン)は、
いかなる存在でもないものとされ、
端的な非存在であるとされます。

そして、

空虚が非存在であるということから、

真なる存在の充実性不動性
論証されることになりますが、

それに対して、

レウキッポスの原子論においては、

空虚の概念は、存在の運動性を支える議論として
捉え直されることになります。

メリッソスにおいて、
どのような意味でも存在しない端的な非存在として、
その存在可能性自体が切り捨てられていた

空虚の概念は、

レウキッポスにおいて、
どのようにして存在の運動性を支える肯定的な概念として
捉え直されていくことになるのでしょうか?

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空虚は存在か?それとも非存在か?

レウキッポスは、メリッソスと同様に、

存在が運動するためには、
運動するための空間や場所としての空虚ケノン)が必要であるとし、

空虚は、あらゆる存在がそこに移動することを許容する
それ自体は空っぽで、何ものでもないものであるということも認めます。

しかし、そこから、

空虚は、何ものでもないのだから、
すなわち、非存在であり、

非存在は存在すること自体が不可能なので、
空虚はいかなる意味においても存在しえない

という

エレア学派のメリッソスにおける論理展開は踏襲せずに、

ここから、メリッソスとレウキッポスの議論は、
全く別々の方向へと進んでいくことになります。

つまり、

エレア学派の存在の哲学と、
レウキッポスとデモクリトスによる原子論は、

空虚を非存在と捉えるのか、それとも存在と捉えるのか?
という議論のこの地点において、

はっきりとたもと を分かつことになるのです。

論理的存在としての運動の場と、近代科学における空間概念

レウキッポスは、

空虚ケノン)は、確かに、
現実の世界における物体や物質のような
具体的な存在ではないという意味では非存在であるが、

それは、その中を、
真なる存在である原子atomaアトマ)が運動するための
のようなものとしては存在する

と主張します。

つまり、

空虚は、具体的な物質的存在現実的実在としては、
あらぬもの、非存在であるが、

物質的存在である原子が、その中で、一定の位置を占め、運動するである
論理的存在としての運動の場としては存在する

ということであり、

レウキッポスは、

空虚(ケノン)は、現実の世界における物質的存在とは別次元である
論理的存在としての場の次元において存在する

と考えたということです。

そして、

このような、レウキッポスにおける
論理的存在としての運動の場である空虚の概念は、

空間における一種の位置座標のようなものとして
捉えられていくことによって、

ニュートンの絶対空間absolute space、縦・横・高さへと無限に拡がる、物質の存在から独立した空虚な容器のようなものとしての三次元のユークリッド空間)

のうような近代科学における空間概念へと
直接つながっていくことになるのです。

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アナクシマンドロスのト・アペイロン(無限定のもの)と
レウキッポスのケノン(空虚)

ただ、レウキッポスにおけるケノン空虚)の概念自体を
より正確に捉えようとするならば、

レウキッポスにおいても、空虚という概念は、
なにものでものないもの、すなわち、
いかなる規定も持たないものという意味で使われているので、

それは、原子がその中で運動する
論理的存在としての運動の場とは言っても、

原点のような基点を持ち、
そこから、上下左右に目盛付きの座標軸が伸びていくイメージで
捉えられるような数学的な座標空間というよりは、

もっと無規定ひたすら空虚な場ということになるかもしれません。

そして、このような、

無規定でありながら、
根源的で真なる存在でもある存在というと、

万物の始原を探究した、最初の三人の哲学者の中の一人である
ミレトス学派のアナクシマンドロスにおける

ト・アペイロンto apeiron無限定のものの概念に
思い至ることになります。

アナクシマンドロスにおいて、万物の始原、根源的で真なる存在である
ト・アペイロンとは、

特定の性質をもった具体的事物ではない、
無限で、無規定な存在とされていたわけですが、

これは、レウキッポスにおけるケノン空虚)の
空間的に無限に広がる無規定な存在としてのあり方と
根本的なところでは一致する概念として捉えることもできると考えられます。

したがって、そういう意味では、

アナクシマンドロスにおける万物の始原である
ト・アペイロン無限定のもの)が、

物質的存在である原子アトマ)がその中を運動する
存在の場として捉え直されたものとして

レウキッポスの原子論における空虚の概念
捉えることができるとも考えられるのです。

・・・

以上のように、

レウキッポスの原子論においては、

エレア学派における
空虚は非存在であり、非存在は存在することができない
という議論の方は無視され、

存在の運動が成立するためには、その前提として、
空虚という概念が必要となるという議論の部分だけが切り取られて
原子論の哲学理論の内に組み入れられていったと考えられるわけですが、

そのような議論の中で、空虚ケノン)の概念は、

物質的存在である原子が、その中で、一定の位置を占め、運動する
論理的存在としての運動の場として捉え直されることになります。

そして、

レウキッポスにおいて、

空虚ケノン)の概念が、真なる存在である原子運動性を支える
根源的な存在として肯定的な意味で捉え直されることによって、

古くは、ミレトス学派のアナクシマンドロス
ト・アペイロン無限定のもの)から、

近代科学における空間概念へも
つながる思想へと展開していったと考えられるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:空虚(ケノン)から原子論(アトミズム)へ①メリッソスにおける真なる存在の充実性と不動性

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