パルメニデスの無時間性とメリッソスの永遠性の関係とは?①同じ前提に基づく二つの異なる推論

あるもの」(to eonト・エオン)すなわち、
存在そのもの、真に存在するものとは、
どのような時間規定の内に存在するのか?

という問いについて、

師であるパルメニデス
弟子であるメリッソスでは、

その答え方が大きく異なります。

パルメニデスは、「あるもの」は、
無時間性において存在するとしたのに対して、

メリッソスは、「あるもの」は、
永遠性の内に存在すると考えたからです。

これから、今回と次回の二回に渡って、

両者の「あるもの」における時間観の違いと
無時間性と永遠性という二つの時間規定の関係性について
考えてみたいと思います。

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パルメニデスにおける「あるもの」の無時間性

パルメニデスは、「あるもの(ト・エオン)」の時間規定について、
以下のように語っています。

それはかつてあったこともなく、
いずれあるであろうこともない。
なぜならば、それは今あるのだから。

(パルメニデス・断片8)

つまり、

「あるもの」は、常に現在において存在するのだから、
そのものにおいては、

かつてあったこともなく
いずれあるであろうこともない

すなわち、

「あるもの」においては、
過去や未来といった時間区分自体が存在しない

ということです。

そして、

「あるもの」が、過去や未来といった
通常の時間規定を超越した存在であり、

そのものにおいては、
過去や未来といった時間区分自体が否定されるという意味において、

それは、無時間性において存在する

ということになるのです。

メリッソスにおける「あるもの」の永遠性

それに対して、メリッソスは、

「あるもの」は常に現在において存在する
というパルメニデスと同じ前提から出発しながら、

それが常に存在するのならば、それは、

かつても常にあり続け
これからも常にあり続ける

と考え、パルメニデスとは異なる推論を展開し、

「あるもの」は、
過去も現在も未来においても常に存在し続ける

という論理的帰結を導き出すことになります。

つまり、メリッソスは、

あるもの」すなわち、真に存在するものが、
もし、時間的な存在として捉えられるとするならば、

それは、過去も現在も未来においても常に存在し続ける
永遠性の内にある存在として捉えられなければならない

と考えたということです。

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詩的で深遠なる表現から論理的で平明な表現へ

以上のように、

パルメニデスにおいては、

「あるもの」における無時間性が、
過去や未来といった通常の時間区分が否定されるという
否定形の形で、詩的で深遠なる表現によって語られているのに対して、

メリッソスにおいては、

「あるもの」における永遠性が、
過去も現在も未来も常に存在し続けるという
肯定形の形で、より論理的で平明な表現によって捉え直されていると
考えられるのです。

・・・

しかし、以上のように、

パルメニデスにおける詩的で深遠なる表現
メリッソスにおいて論理的で平明な表現として
語り直されたことによって、

「あるもの」の無時間性永遠性として
改めて捉え直されたと言っても、

この二つの概念には、いまだ、単なる概念の解釈の仕方以上の大きな開き、
概念としての根本的なギャップがあるようにも思えます。

無時間性永遠性として捉え直されるということは、

言うなれば、

今まで、過去も未来も存在しない(=無時間性)と言われていたものが、

突然、過去においても未来においても存在する(=永遠性)と言われようになった
ようなものであり、

無時間性永遠性という概念は、
一見すると正反対のことを意味するようにも見える概念なので、

両者の間には、
単なる議論の簡略化や論理の明瞭化以上に、
もっと根本的な概念のずれがあると考えられるということです。

そこで、次回は、

以上のような、パルメニデスメリッソスにおける
「あるもの」についての時間観の根本的な違いは、
さらに、どのようなところから来ていると言えるのか?

ということについて考えていきたいと思います。

・・・

このシリーズの前回記事:あるものト・エオン)」の空間的無限性と時間的永遠性

このシリーズの次回記事:パルメニデスの無時間性とメリッソスの永遠性の関係とは?②神の視点と人の視点の交錯

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