アキレスと亀のパラドックス③無限に細かくちぎれるパンの話

前回の議論では、

ゼノンの「アキレスと亀のパラドックス」における
哲学的問題本質は、

現実の世界の論理においては、
有限の距離である、亀との差を
アキレスが追いつき、追い越すことができるのに、

ゼノンのパラドックスの論理においては、
アキレスが、亀との間で無限分割されていく無限数の点
すべて通過しきることができないので、
アキレスは永遠に亀に追いつけないことになってしまうのはなぜなのか?

という

二つの論理の関係性の問題に集約できることを示しました。

それは、つまり、

アキレスは、
亀との間の有限の距離を追いつき、追い越すことができるはずだが、

それと同時に、

亀との間無限分割されていくすべての点を通過しきることはできないという

相反する結論に至るように見える二つの推論がどのような関係にあり、
二つの論理は、いかなる意味において同時に成立しうるのか?

という問いでもあります。

今回は、この問題について考えることで、

「アキレスと亀のパラドックス」の
哲学的・論理的な解決法に迫っていきたいと思います。

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無限に細かくちぎれていく一個のパンのたとえ

議論を整理するために、

一度、アキレスと亀のかけっこ勝負という
距離の有限性と無限分割のたとえを離れて、

問題を、よりイメージしやすい
大きさの有限性と無限分割のたとえに置き換えて
この議論を捉え直してみたいと思います。

例えば、

片手に乗るくらいの大きさの
一個のパンがあったとして、

それが、
無限に細かくちぎり分けることができるという
特別なパンであったとします。

そのパンは、無限に小さい欠けらに分けることができるだけであって、

そのことは、
パン自体の全体の大きさが無限大に大きい
ということを意味するわけではありません。

ですから、

パンをいくら細かくちぎり分けていっても、
一個のパン全体としての食べられる量が変わるわけではないので、

その無限にちぎり分けられた細かいパン屑を食べ続けることによって
無限にお腹を満たし続けることはできない

ということになります。

無限に細かくちぎり分けることができるとしても、
そのパン全体の大きさは変わることがないわけですから、

普通のパンと同じように、
そのパンをすぐに食べ切ってしまうことができる

というわけです。

ただし、

無限に細かく分かれていく特別なパンということなので、

それをすべて飲み込んでしまった後で、
お腹の中でパンがさらに細かく無限に分割されていく
ということはあり得るかもしれませんが、

いずれにせよ、

パンがその内部無限分割されていくことが可能であることと、

全体の大きさとして有限なパン自体を
すべて食べ切ることができるということは、

全くの無関係ということになるのです。

全体として有限な距離の内部における無限分割

そして、

この「無限に細かくちぎれるパンの話」において、

限りなく小さな欠けらへと無限分割することができるパンであっても、
その一個のパン全体の大きさが有限であるならば、

そのパン全体を飲み込んで食べ切ってしまうことは可能であるのと
同じように、

「アキレスと亀のパラッドクス」においても、

たとえアキレスと亀の間の距離を無限分割することができるとしても、
その全体の距離が有限であるならば、

アキレスは、亀との間の有限な距離の全体を一気に駆け抜けて
亀に追いつき追い越すことが可能

ということになります。

つまり、

アキレスが亀に追いつくまでに走ることになる距離も
亀を追い越した後に走ることになる距離も、

両方とも同様に、
無限に細かい距離の部分へと分割していくことは可能なまま
ではあるわけですが、

パンの議論の時と同様に、

そうしたこと、
有限な距離の全体
すべて駆け抜けてしまうことができるということは、

全く無関係な問題であるということです。

アリストテレスにおける現実的無限と可能的無限の議論

ちなみに、

ゼノンの「アキレスと亀のパラッドクス」の
哲学的な解消法について、

アリストテレスは、

現実的に存在する無限のものを通過することはできないが、
可能的に存在する無限のものを通過することはできる

と述べていますが、

こうしたアリストテレスの議論は、

上記のパンの議論とほぼ同じ内容のことを
示していると考えられます。

つまり、

有限の存在の内部が、
無限に細かく分かれていく可能性があるとしても、

そのことは、その距離や大きさの全体
現実として無限であるということを意味するわけではない

ということです。

アキレスと亀との間に本当に現実として
無限な距離があるならば、

アキレスは亀よりどんなに速かったとしても、
その無限の距離を乗り越えて亀に追いつくことは不可能ですが、

アキレスと亀との間の距離が単に可能性として
無限分割できるというだけであるならば、

アキレスは亀に追いつき追い越すことは可能というように、

長さや大きさが内部で無限分割できるということと、
その距離や大きさの全体が無限であるということは
全く次元が異なる問題である

ということになるのです。

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全体としての有限性と、部分における無限性の両立

以上のように、

「無限に細かくちぎれるパン」において、

無限分割されていくパンの
無限の部分のすべてを数え上げることはできないが、

その無限のパン屑の全体である一個のパン
丸ごと飲み込んでしまうことができることと

ちょうど同じように、

「アキレスと亀のパラドックス」における距離の無限分割においても、

有限な距離の内部において、
無限に増えていく点や部分のすべてを数え上げることはできないが、

その全体である有限な距離自体を
アキレスが駆け抜け、亀に追いつき追い越すことは可能である

ということになります。

そして、このことは、

「アキレスと亀」におけるゼノンのパラドックスの論理
現実の世界における論理に反する
捨て去られるべき誤った推論であるというよりは、

むしろ、

この二つの論理は、それぞれ別々の視点から
存在における運動と変化の真理を語る論理として
両立している

ということを示していると考えられます。

つまり、この二つの論理は、

一つの存在における

全体としての有限性と、
部分における無限性という二つの側面を

それぞれ別の次元から語り出しているということです。

この場合、「別の次元」と言っているのは、
単なる比喩ではなく、

文字通りの数学的な概念としての
次元」のことをも意味しています。

それは、例えば、

三角形の内には、
無限の数の点が含まれているからといって、

その三角形の大きさが無限に大きいということにはならないように、

三角形の全体の大きさが有限であることと、

三角形の内部
無限の数の点を見いだしうるということは、

互いに矛盾しているわけではなく、

両者とも、それぞれ別々の視点から、
三角形という図形の真実のあり方を語っていると考えられる

というようにです。

・・・

以上のように、

「無限に細かくちぎれるパン」において、

限りなく細かく無限分割されていくパンを、
それが細部では無限に細かいパン屑へと分割され続けていくままに、
そのパン全体をそのまま丸ごと飲み込んでしまえるように、

「アキレスと亀のパラドックス」においては、

アキレスと亀の間の距離という線分の内に、
無限数の点を見いだし続けることができるままに、
その距離全体を、アキレスは乗り越え追い越していくことができることになり、

さらに、

この一見すると互い相反する矛盾する結論を導くように見える
二つの論理は、

一つの存在における
全体としての有限性と部分における無限性

という

存在における運動と変化の真理を
それぞれ別々の次元からが語り出す二つの論理として
両立していると考えられるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:
アキレスと亀のパラドックス②数学的な解決法と、哲学的問題としての本質

このシリーズの次回記事:
競技場のパラドックス①列車の右側では、左側よりも時間が速く進む

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