存在の多数性論駁②無限数の存在からなる無限小の世界

前回の「存在の多数性論駁①数の有限性と無限分割」では、

宇宙全体を包括的に捉えた存在そのものについて、

それが、

多数の存在によって構成されていて、
しかも、その数が有限であると仮定すると、

存在の無限分割の議論へと陥り、

存在の数が有限であると同時に無限であるという矛盾が生じる
ということを示しました。

そこで、今回は、

存在の多数性についての前提の後者である
存在の数の有限性という前提を捨て去った場合、

すなわち、

世界が無限の数の存在から構成されていると考えた場合でも、

ゼノンの多数性論駁の議論は成り立つのか?

ということについて考えていきたいと思います。

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存在が無限小へと至る議論

存在の多数性論駁の内のもう一つの議論である

存在の大きさ無限小無限大をテーマにした
背理法の議論において、

ゼノンは、まず、

存在が多であると仮定するならば、

多とされた存在の一つ一つは、
それ以上の部分には分割されえない
単一の存在でなければならない

と主張します。

これは、言わば、

世界の全体が、

原子のような無数の小さな粒子
寄り集まることによって成り立っている

というイメージであり、

つまり、

存在が多であると仮定するならば、

世界の全体は、

それ以上分割されえない単一の存在である
分割不可能な究極の単位から構成されていることになる

ということです。

そして、

あるものが分割不可能な究極の構成単位であるためには、

それは、自分の内に部分を持たない、単一の存在
であることが必要となります。

なぜならば、自分自身の内に部分を持つ存在は、
その部分によって、合成された存在であるということになり、

それ以上分割されえない単一の存在としての究極の単位ではありえない
ということになるからです。

そして、

分割不可能な究極の構成単位が部分を持たないということは、
それは、大きさ自体も持たないということになります。

例えば、

物理学上の概念としての原子のような存在が
世界を構成する究極の単位であるか?

という問題について考えるとき、

原子がいかに微小なものであるとしても、
それが一定の大きさを持つ存在である以上、

その存在のさらに半分の大きさをもった部分というように、
その中に、さらに小さな部分を見つけ出すことができるということになり、

原子は、それ自身よりもより小さい部分、より小さい構成単位へと
さらに分割していくことが可能ということになります。

現に、現代物理学上の概念としての原子は、
19世紀までは、それが世界を構成する分割不可能な究極の単位とも
考えられてきましたが、

20世紀初頭になると、原子自体も、
原子核とその周囲に分布する電子という

より小さな部分から構成されていることが分かり、

さらに、

その原子核も、陽子中性子という
さらに小さな部分から構成されている

ということが明らかにされていきました。

つまり、

存在が一定の大きさを持つものである限り、
それは、自らの内に部分を持つことになり、

さらに小さな部分、さらに小さいな構成単位へと
どこまでも分割されていくことになるので、

分割不可能な究極の単位を見つけ出そうとする探究のなかで、
存在は、無限小の状態へと際限なく分割され続けていくことになる

ということです。

以上のように、

存在が多であると仮定すると、

世界を構成する究極の単位としての
存在の一つ一つは、

無限小に小さい

ということになるのです。

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無限数の存在からなる無限小の世界

では、

世界の全体から存在の分割を始めていき、
存在の究極の単位へと至るためには、

いったい、どこまで存在の分割を進めれていけばいいのか?

ということですが、

その一つの答えとしては、

先ほど述べたように、
分割自体無限に進んでいき、多である存在は、
無限小の状態へとどこまでも際限なく分割され続けていく

ということになります。

しかし、もう一つの答えとして、

もし、それでも、
それ以上分割不可能な存在の究極の単位へと
至ることができるとするならば、

それは、世界の構成単位としての存在の大きさが、
無限小収束値であるゼロに至ったとき

ということになるでしょう。

つまり、

世界の構成単位としての存在は、

それが部分も大きさを全く持たない状態となったときにはじめて、

単一の存在として
世界を構成する存在の究極の単位となることができる

ということです。

しかし、このとき、今度は、

そうした大きさを全く持たない究極の単位の
寄せ集めによって構成された世界全体についても、
それはいかなる大きさも持っていないということになり、

世界全体大きさはゼロということになってしまう

という問題が生じます。

そして、この議論は、

たとえ、世界が無限の数のものから構成されていると考えた場合でも、
全く同じように適用されることになり、

世界を構成している究極の単位大きさを全く持っていないのならば、

無限の数からなる世界全体も、やはり、
その大きさはゼロということになります。

なぜならば、

いかなる大きさも持たないということは、
その存在の大きさはゼロということになりますが、

ゼロにいかなる数を掛けてもゼロのままなので、

ゼロの大きさであるものが無限の数集まっても、
その全体としての大きさはゼロのままということになるからです。

つまり、哲学上の議論としては

0×∞=0

が成立するということです。

通常の数学上の概念としては、無限大)は数ではなく、値が限りなく増大していくという状態を示す概念なので、数の概念であるゼロに数ではない概念である∞を掛け合わせても意味がなく、解なしになるだけという考え方もありますが、
ここでは、哲学ないし論理学上の議論として、非存在の概念であるゼロに対して、(数や量として限りなく大きくなる)存在の概念である∞を掛け合わせた場合、非存在がいくら多く集まっても、それは論理的には非存在のままにすぎないという意味において、上記の式は成り立っていると考えられます。

つまり、

世界が大きさを持たない究極の単位によって構成されているとすると、
世界を構成するものの数が有限であるか無限であるかという問題に関わりなく、

端的に、

世界全体無限小の状態、さらには、
大きさゼロ非存在の状態へと陥ってしまう

ということになるのです。

・・・

以上のように、

たとえ、世界が無限の数のものから構成されていると考えた場合でも、

存在が多であると仮定すると、

世界を構成する究極の単位
無限小、さらには、全く大きさを持たない状態へと至る

というゼノンの多数性論駁の議論によって、

現に一定の大きさを持って存在しているはずの世界全体が、
無限小、さらには大きさを持たないという意味での非存在ということになり、

世界は存在しつつ非存在であるという

矛盾が生じてしまうことになるので、

今回の議論においても、

存在が多であるという、はじめの仮定自体が
否定されることになるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:存在の多数性論駁①数の有限性と無限分割

このシリーズの次回記事:存在の多数性論駁③無限大であると同時に無限小である

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