真理へ至るための3つの道⑧ヘーゲル弁証法と生命の論理の自己展開

自己展開する生命の論理

前回ヘーゲル自身は、

自分の哲学における論理手法を、
形式的な論理学としては提示していないと述べましたが、

それは、

ヘーゲルが、
自身の弁証法論理学を、

従来の形式化された
静的な論理学ではなく、

具体的な理念と一体となって、
常に運動発展し、

その運動の中で、
概念自体も変容していく、

具体的な実質をもった動的な論理学として

提唱したことによります。

そして、

そうした具体的な実質をもった、
ヘーゲルの弁証法の論理展開は、

第一には、

命が誕生し、成長していって、そののちに、
いずれは、自分自身の命としては、
その終わりであるを迎えるが、

それと同時に、

自らの生死を超えた、
新しい次元として、
次の世代新しい命を生むという

生命発展していくあり方、

すなわち、

自己展開する生命の論理として
描かれています。

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つぼみと花と実の例え

それでは、ヘーゲルは、
具体的にどのような形で、

生命弁証法的発展を描いているのでしょうか?

例えば、ヘーゲルは、

その主著『精神現象学』の序論において、
次のような、例えとして
弁証法の考え方を示しています。

つぼみは、花が咲くと消えてしまう。
そこで、つぼみは花によって否定されると言うこともできよう。

同じように、

果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、

その結果、

植物のとして
果実が花に代わって登場することになる。・・・

この等しい必然性があって初めて、
全体という生命が成り立つのである。

ヘーゲル精神現象学序論

このことは、以下のように解釈することができるでしょう。

植物においては、

つぼみからが生じ、
から果実が生じることによって、

新しい世代、すなわち、
新しい次元へと生命が引き継がれていきます。

そして、

つぼみから花が生じるとき、

花が咲くことによって、
元のつぼみ自体は消えてしまうので、

これは、ある意味で、

花の生成によって、
つぼみの存在は否定されるということになります。

しかし、それと同時に

つぼみの存在は、
花の存在の中に引き継がれてもいるので、

その意味では、

花の生成によって、
つぼみの存在は肯定されるとも言えます。

同じように、

花から果実が生じるとき、

果実が生まれることによって、
元の花は枯れてしまうので、

果実の結実は、
であり、その生命の否定を意味することになります。、

しかし、

花は、自らが枯れることによって、
その命を果実へと引き継ぎ、

は、果実の中において、
新たな次元で生きるとも言えるので、

果実こそが、
花の生命の最大の肯定である、とみることもできます。。

つまり、

果実とは、

、すなわち、

という生命のテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)の、
アウフヘーベン(止揚)によるジンテーゼ(統合)

であり、

生命の論理が、
新しい次元へと自己展開する運動の結実である、

ということです。

以上のように、ここにおける、
ヘーゲルの『精神現象学』の記述では、

つぼみから花へ

そして、

花から果実へという、

2回にわたる、
アウフヘーベンによって、

生命が、次々に、
新たな次元へと展開していく、

生命の論理のダイナミックな
自己展開の姿が描かれている、

と考えられるのです。

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矛盾を内包する生きた真理

このように、

ヘーゲルの弁証法における論理展開は、


肯定否定といった、

互いに対立し
矛盾する2つの論理を、

その矛盾した論理ごと丸ごと飲み込んで
新たな次元へと引き上げて統合してしまうという、

破格の論理の使い方であり、

これは、ある意味では、

矛盾こそが真理だと言って、

論理的思考の秩序立った歩み自体を
ぶっ壊してしまっているとも言えます。

こうした、ヘーゲルの、

矛盾を内包しながら、
自己展開していく動的な論理展開としての、

超越の道」という第三の論理形式の使い方は、

論理的整合性を築き上げることによって、
真理を探究する知の営みである、

哲学自体を破壊する哲学である、

とさえ、言うこともできるでしょう。

しかし、そもそも、

ヘーゲルが、自らの論理展開の第一の
具体的な形態として考えた、

生命の真理自体を直視するとき、

それが、

という
相反する矛盾した2つの論理
自らの内に含み、

その2つを合わせ持つことによって、はじめて、
成立していることも事実です。

なので、

生命の論理という、
具体的な実質をもった論理形態に基づいて、

肯定の道」と「否定の道」に次ぐ、
第三の論理的思考の道筋である、

超越の道」という探究の道を歩むとき、

その哲学的探究によって、求められる真理は、

形式的で、静的な、言わば、
死んだ真理ではなく、

自らの内に矛盾を内包しながら、
それを契機として、

動的自己展開していく
生きた真理となる、

と考えることもできるように思います。

・典拠 : ヘーゲル『精神現象学』、樫山欽四郎訳、平凡社ライブラリー

・・・
このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道⑨哲学的探究における三つの道の循環

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